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2011年12月31日 (土)

松下幸之助 一日一話の過去ログ 其の参

松下幸之助 一日一話の過去ログ其の参です。
続きから御覧下さいませ


ソース元:松下幸之助 一日一話

総決算

12月は総決算の月。
このときに当たり、1年の歩みをふり返り、お互いの心のケジメもつけたいものです。
この1年、よかったことはよかった、悪かったことは悪かったと、
素直に自分で採点しなければなりません。

そしてこの1年は、決して自分ひとりの力で歩んだものではありません。
自分で気づかないところで、人びとの協力を得、
また思わぬところで迷惑をかけていることもあると思うのです。
そんな周囲の人びとの協力に対しては、ありがたく感謝し、
迷惑をかけたことに対しては謙虚に謝罪したいと思います。
そうした素直な自己反省こそ、次の新しい年の自分の成長にプラスする何かを、
必ず与えてくれると思うのです。

静思の時

何事も合理的でスピーディなものが尊ばれる昨今、
それがスピーディであればあるほど、一方で静思の時というか、ゆったりしたものがほしくなる、
これが人情というか、人間の本能的とも言える一つの姿でしょう。
だから、これを押さえることは人間の身体や生活を、
とんでもなくゆがんだものにしかねないと思います。

ですから、夜やすむ前、床の上に坐って静かに一日を反省する。
やり方はどうあれ、そういう時を持って、一日のケジメをきちんとつけてこそはじめて、
そこに安らぎが生まれ、明日への新たな意欲が湧いてくるのではないか。
世の中が騒々しくなるほど、そういう静思の時が必要になると思うのです。

理想ある政治を

政治には理想が大事です。
日本をこうするんだという1本筋が通ったものがなければいけない。
そういうものがいまは見られません。
その場を適当におさめてやっている、そういう状態です。

いまだ日本が世界で2、30番目ということであるなら、
追いつけ追いこせということで目標もできてきますが、
すでに世界で1、2位を争うようになっている以上、そこにより高い目標、
理想を打ち出す必要があると思います。
たとえ世界で1番ということになったとしても、
日本にはもっと大きな役割があるんだからということで、
より高い理想を持ち、力強い政治を行なっていくことが必要だと思うのです。

ケジメをつける

お互い人間にとって、責任を明らかにするというか、ケジメをつけることの大切さは、
昔からよく言われてきていることだが、これは今日でも変わらないと思う。
もちろん、それぞれに会社の社風や仕事の内容が違うから、
その会社の独自のやり方があるであろう。
しかし、お互いに自分自身の成長のためにも、また自分の会社がさらに飛躍し、
社会に貢献してゆくためにも、ケジメをつけるという断固としたものを、
一面において持たなければならないと思う。

いま一度、それぞれの立場でわが身を振り返り、事をアイマイに過ごしていないかどうか、
改めて確かめてみることが大事ではないだろうか。

投げやらない

成功する会社と成功しない会社の差というものは、
私は紙一重だと思います。

たとえば、今後、価格の競争が激しくなってくれば、
われわれの製品のコストを10%引き下げるということを、
当然やらなければなりません。
もし下がらなければ、なぜ下がらないかということに対して、
内外の衆知を集めなければならないのです。
それを、自分の知恵の範囲で、会社の知恵の範囲でいろいろ考えて、
これは無理だ、できないと言って投げやってしまえば、
これは絶対にできないわけです。
どうしてもやっていくんだというところに、
一つの成功の糸口がだんだんとほどけてきて、
必ずその成果が上がると思うのです。

うまくて、早くて、親切

私がでっち奉公をしていたころ、
楽しみの一つはうどんを食べることだった。
その当時は、子ども心にも「あのお店のうどんはおいしいし、
すうどん一杯のお客でも大切にしてくれる」と感じ、
ある一軒の店ばかりに通ったものである。
そのうどん屋は、うまくて、親切で、そして早く作ってくれた。

現代における商売、企業のコツもこのうどん屋さんのやっていたことと何一つ変わらない。
りっぱな商品を早くお届けし、
親切丁寧に使用法を説明する--こうした心がけで商売をするならば、
私は必ずそのお店は成功すると思う。
またそういうお店が成功しなかったら不思議である。

経営者次第

昔の日本の言葉に「頭がまわらなければ尾もまわらない」というのがあるが、
私は、経営者が100人なら100人の人を緊張させて、
大いに成果を上げようと思えば、その人の活動が、
端の人がみて「気の毒な」と思うくらいにならないといけないと思う。
「うちのおやじ、もう一生懸命にやっとる。
気の毒や」という感じが起これば、全部が一致団結して働くだろう。
けれどもそうでない限りは、経営者の活動の程度に応じてみな働くだろうと思う。

人間というのはそんなものである。決してぼろいことはない。
自分はタバコをくわえて遊んでいながら「働け」と言っても、それは働かない。
私はそういうふうに考えてやってきた。

時を尊ぶ心

以前、ある床屋さんに行ったとき、サービスだということで、
いつもなら1時間で終わるサンパツを、その日は1時間10分かけてやってくれた。
つまり、床屋さんはサービスだということで10分間も多く手間をかけてくれたというわけである。
そこで私は、サンパツが仕上がってから冗談まじりにこう言った。

「君がサービスしようという気持は非常に結構だと思う。
しかし、念入りにやるから10分間余分にかかるということであっては、
忙しい人にとって困るようなことになりはしないか。
もし君が、念入りに、しかも時間も50分でやるというのであれば、
これはほんとうに立派なサービスだと思うのだが……」

運命に従う

人には人に与えられた道があります。
それを運命と呼ぶかどうかは別にして、自分に与えられた特質なり境遇の多くが、
自分の意志や力を越えたものであることは認めざるを得ないでしょう。
そういう運命的なものをどのように受けとめ、生かしていくかということです。

自分はこのような運命に生まれてきたのだ、だから、
これに素直に従ってやっていこう、というように、自分の運命をいわば積極的に考え、
それを前向きに生かしてこそ、一つの道が開けてくるのではないでしょうか。
そこに喜びと安心が得られ、
次にはほんとうの意味の生きがいというものも湧いてくるのではないかと思うのです。

小事を大切に

ふつう大きな失敗は厳しく叱り、小さな失敗は軽く注意する。
しかし、考えてみると、大きな失敗というものはたいがい本人も十分に考え、一生懸命やった上でするものである。
だからそういう場合には、むしろ「君、そんなことで心配したらあかん」と、一面励ましつつ、失敗の原因をともども研究し、今後に生かしていくことが大事ではないかと思う。

一方、小さな失敗や過ちは、おおむね本人の不注意や気のゆるみから起こり、本人もそれに気がつかない場合が多い。
小事にとらわれるあまり大事を忘れてはならないが、小事を大切にし、小さな失敗に対して厳しく叱るということも一面必要ではないか。

信用は得難く失いやすい

われわれが何か事を成していく場合、
信用というものはきわめて大事である。
いわば無形の力、無形の富と言うことができよう。

けれどもそれは一朝一夕で得られるものではない。
長年にわたるあやまりのない、誠実な行ないの積み重ねがあってはじめて、
しだいしだいに養われていくものであろう。

しかしそうして得られた信用も失われるときは早いものである。
昔であれば、少々のあやまちがあっても、過去に培われた信用によって、
ただちに信用の失墜とはならなかったかも知れない。
しかしちょっとした失敗でも致命的になりかねないのが、
情報が一瞬にして世界のすみずみまで届く今日という時代である。

日に十転す

古人は“君子は日に三転す”と言ったという。
君子は時勢の進展というものを刻々と見て、それによく処しているから、
一日に三回も意見が変わっても不思議ではないというのであろう。

今日はおそろしくテンポの早い時代である。そうした時代に、
十年一日のごとき通念で、ものを見たり考えておれば判断をあやまることも多いだろう。
昔ですら君子たるものは一日に三転しなければならなかった。
テンポの早い今日では、日に十転も二十転もするほどの識見と判断の素早さを持たねばなるまい。

人間の本性は変わらぬものだが、その上に立って、
変わりゆく時勢の進展に刻々と処していくことが大事だと思う。

寿命を知る

人間に寿命があるように、われわれの仕事にも、
それがいつのことかわからないにしても、
やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。
しかし、だからといって、努力してもつまらない、と放棄してしまうようでは、
人間で言うところの天寿を全うせしめることはできない。
これはいわば人間はやがて死ぬのだからと、
不摂生、不養生の限りを尽すのと同じであろう。

それよりもむしろ、いっさいのものには寿命がある、と知った上で、
寿命に達するその瞬間までは、お互いがそこに全精神を打ち込んでゆく。
そういう姿から、大きな安心感というか、おおらかな人生が開けるのではないかと思う。



おとなと青年、あるいは子供との間に断絶があるとすれば、
それはわれわれの言う商売的な利害を共にしていない、
さらにもっと高い意味の利害を一にしていないからだと思います。

親は子のために、子は親のために、ほんとうに何を考え、
何をなすべきかということに徹しているかどうか、
また先生は生徒のためをほんとうに考えているかどうか、
生徒は先生に対してどういう考え方を持っているのか。
そういう意識がきわめて薄いために、そこに溝ができ、
それが断絶となり、大いなる紛争になってくるのではないでしょうか。
時代が時代だから断絶があるのが当然だと考えるところに根本の錯覚、
過ちがあると思うのです。

昭和維新の志士として

いまから百年ほど前に明治維新というものがあり、そしてその後、
日本の姿が世界各国から認識され、評価されるようにまでなりました。
しかし今日に至って、日本はまた大きな転換期を迎えていると思います。
また日本ばかりでなく、目を転じて世界をみてみると、
世界の情勢も必ずしも安定しているとは言えません。

そういう情勢を考えるとき、
私はいまは“昭和維新”のときであると考えねばならないのではないかと思います。
明治維新は日本の開化であった、昭和維新は世界の開化に努力する時期であると思うのです。
そしてわれわれ日本人が、昭和維新の志士を買ってでなくてはならないのではないかと思うのです。

大義名分

古来名将と言われるような人は、
合戦に当たっては必ず「この戦いは決して私的な意欲のためにやるのではない。
世のため人のため、
こういう大きな目的でやるのだ」というような大義名分を明らかにしたと言われる。
いかに大軍を擁しても、正義なき戦いは人びとの支持を得られず、
長きにわたる成果は得られないからであろう。

これは決して戦の場合だけでない。
事業の経営にしても、政治におけるもろもろの施策にしても、
何をめざし、何のためにやるのかということをみずからはっきり持って、
それを人びとに明らかにしていかなくてはならない。
それが指導者としての大切な勤めだと思う。

正しい競争を

私どもが会社を経営していくときに、同業会社と非常な競争になります。
競争はしなければならない。
しかしそれは正しい形においてなさなければなりません。
卑怯な競争はしてはならない、まして相手を倒すとか、
相手に損害を加えるというような競争の仕方であってはならない、
というのが、事業をはじめて以来一貫した私の指導精神です。
競争会社があってこそわれわれのはげみになるのだ、
そういうように競争会社を発展的に見なければならないと考え、
また社員の人にも言ってきました。

われわれは実業人であると同時に、やはり紳士でなければならない、
正しい商売を遂行していかなければならないと思うのです。

人生の妙味

雨が降ったり雷が鳴ったりという自然現象はある程度の予測はできるものの、正確にはつかみえない。

われわれの人生の姿も、この自然現象とよく似たものではないだろうか。
そこには、天災地変に匹敵する、予期できない多くの障害がある。
われわれはそれらの障害の中にありながら、常に、自分の道をもとめ、仕事を進めてゆかねばならない。
そこに“一寸先は闇”とよく言われる人生のむずかしさがあるのであるが、
そういう障害を乗りこえ、道を切り拓いてゆくところに、また人生の妙味があるのだとも思う。
予期できるものであれば、味わいも半減してしまうであろう。

命をかける

「人多くして人なし」という言葉を、昔ある先輩から聞いたことがある。
考えてみると、会社経営においても普通の状態では、間に合う人は大勢いる。
ところがさて、大事に臨んで間に合う人はというと、きわめて少ないものである。

では、どういう人が大事のとき役に立つか。
その道の知識とか経験が大きな比重を持つことは当然だが、
ただそれだけではダメのように思う。
その上に何が必要かというと、「生命を賭す」気構えである。
と言っても今日ではほんとうに命を捨てるということはきわめて少ないが、
いざというときには「命をかけて」という気構えを、
いつの場合でも持っている人が、
ほんとうに大事に役立つ人だと思うのである。

呼びかける

自分が商売をしていて“これは良い品物だ。
使えばほんとうに便利だ”というものをみつけたら確固とした信念を持って、
お客さんに力強く呼びかけ、訴えるということが大事です。
そういう呼びかけをするならば、お客さんもおのずとその熱意にほだされ、
一度使ってみようかということになる。その結果、非常に喜ばれ、
“なかなか熱心だ”ということで信頼が集まり、自然商売も繁昌していくことになります。

要はそういう呼びかけを喜びの気持を持って行なうこと、
そこにこそお客さんにも喜ばれ、
世のため人のためになる真の商売を成功させる一つの大きなカギがあるのではないでしょうか。

持ち味を生かす

家康は日本の歴史上最もすぐれた指導者の一人であり、
その考え方なり、業績に学ぶべきものは多々ある。
しかしだからと言って他の人が家康の通りにやったらうまくいくかというとそうではない。
むしろ失敗する場合が多いと思う。と言うのは、
家康のやり方は家康という人にしてはじめて成功するのであって、
家康とはいろいろな意味で持ち味の違う別の人がやっても、
それはうまくいかないものである。

人にはみなそれぞれに違った持ち味がある。
一人として全く同じということはない。
だから偉人のやり方をそのまま真似るというのでなく、
それにヒントを得て自分の持ち味に合わせたあり方を生み出さねばならないと思う。

限度を越えない

社会には、いわゆる常識というものがあります。
そしてその常識に従って、ある一定の限度というものがあるはずで、
たとえば、お金を貯めることも結構なら使うのも結構ですが、
その限度を超えて吝嗇であったり、また金使いが荒く、
借金だらけであるということでは、世間が承知しません。
やはり、収入の範囲において、ある程度使うということが許されるわけで、
これを越すと信用問題が起こってくることになります。

何をするにも、その限度を越えないように、お互いに十分注意し合い、
行き過ぎたことは遠慮なく忠言し合って、
おのおの責任感を持ってやっていくことが望ましいと思うのです。

世界に誇れる国民性

同じ日本人でも細かくみれば、考え方や性格など実にいろいろな人がいるわけですが、
しかしまた一面には、日本人には日本人としての共通の特性というか、
日本人独特の民族性、国民性というものがやはりあるように思います。
日本独特の気候や風土の中で長い間過ごしているうちに、
たとえば日本人特有の繊細な情感というようなものが、
しだいに養われてきたと言えるでしょう。

日本人の国民性のなかにも、反省すべき点は少なくありませんが、
とくに勤勉さとか、器用さとか、
恵まれた気候風土と長い歴史伝統によって養われてきたこういう特性には、
世界にも大いに誇り得るものがあるように思うのです。

上位者に訴える

自分が最善を尽してもなお、これがいい方策だという確信が生まれない場合は、
ただちに上位者に訴える必要があります。

もちろん、それぞれの人が会社の基本方針にのっとりつつ、
責任をもって自主的に仕事を進めていくという姿はきわめて好ましいと思います。
けれどもうまくいかない非常に困難な場合、自分だけで悩み、上位者に訴えない。
上位者はうまくいっていると思って安心している。
どうしてもいけなくなって、訴えたときにはすでに手遅れだということが往々にしてあります。

具合の悪いときは瞬時も早く上位者に報告して指示を仰ぐ、
それがほんとうの責任経営だと思うのです。

抜擢人事には介添えを

先輩が多くいるにもかかわらず、その後輩の若い人を抜擢して上のポストにつけるという場合があります。
そういう場合には、単に辞令を渡して“今度A君が課長になった”と発表するだけでは具合が悪いと思います。
そんな場合には社長が、その課の一番古い先輩に、
課員を代表して「われわれは課長の命に従い頑張ります」というような宣誓をさせるなりなんなりして、
はっきりけじめをつけさせることが必要です。
それをしないでいると、変なわだかまりがくすぶり、課全体が困ることにもなります。

抜擢人事には、そのように、社長が適切な介添えをすることが、非常に大事だと私は思います。

適正な給与

だれしも給与は多い方がよいと考えます。
その考え方自体は決して悪いとは思いません。
しかし、会社がかりに多くの給与を出したいと念願しても、
会社の一存によって実現できるかというと必ずしもそうはいかないと思います。
やはり、それだけの社会の公平な承認が得られて、
はじめてそれが許され、恒久性を持つわけです。

給与が適切であるか否かは、会社にも従業員にも、
その安定と繁栄にかかわる重大な問題であり、
同時に社会の繁栄の基礎ともなるものです。
お互いに十分な配慮のもとに、絶えざる創意と工夫を加えて、
その適正化をはかっていかなければならないと考えます。

恩を知る

恩を知るということは、人の心を豊かにする無形の富だと思います。

猫に小判ということがありますが、
せっかくの小判も猫にとっては全く価値なきものにすぎません。
恩を知ることはいわばその逆で鉄をもらってもそれを金ほどに感じる。
つまり鉄を金にかえるほどのものだと思うのです。
ですから今度は金にふさわしいものを返そうと考える。
みんながそう考えれば、世の中は物心ともに非常に豊かなものになっていくでしょう。

もっとも、この恩とか恩返しということは決して要求されたり、強制されるものでなく、
自由な姿でお互いの間に理解され浸透することが望ましいと思います。

事あるたびに

私は、世の中というものは刻々と変化していき、
進歩発展していくものだという見方を根本的に持っています。
何か事あるたびに、この世の中はだんだんよくなっていくと思っているのです。

あの誤った戦争をして、あれほどの痛手を被ったにもかかわらず、
今日のように繁栄の姿になっているのは、どういう問題が起ころうとも、
世の中は一刻一刻進歩発展していくものだということを表わしている一例ではないでしょうか。
あの戦争があってよかったとは決して思いませんが、
しかしどういう事があった場合でも、お互いのあり方次第で、
それが進展に結びつく一つの素因になるのではないかと思います。

広い視野

今日では、世界の一隅に起こったことも、
それが瞬時に全世界に伝わり、さまざまな影響を及ぼす。
そのような中で、自国の範囲だけ、自分の会社、団体の範囲だけの狭い視野で事を考え、
行動していたのでは、往々にしてあやまちを犯すことになってしまうと思う。
いま、視野の広さというのは、指導者にとって、欠くことのできないものであろう。

指導者はみずから世界全体、
日本全体といったように広い範囲でものを見るよう常に心がけつつ、
一国の運営、会社や団体の経営を考えなくてはならないし、
また人びとにそうした広い視野を持つことの大切さを訴えていかなくてはならないと思う。

忍ぶべきを忍ぶ

誠心誠意いいものをすすめたけれども用いてくれないというので憤慨し、
これは相手が暗愚だからしようがないとやけになって、
結局うちこわしになってしまうということが、ままあるようです。

しかし、そういうことでは、私は大したことはできないだろうと思います。
用いてくれなければ時をまとう。
これだけ説明してもだめだというのは、
これは時節がきていないのだ--そう考えてじっと忍耐していくところから、
無言のうちに知らしめる、というような強い大きな誠意が生まれてきます。
そしてそのうちに、相手がみずから悟ることにもなって、
それが非常な成功に結びつくことにもなりましょう。

自分の最善を尽す

太閤秀吉という人は、ぞうり取りになれば日本一のぞうり取りになったし、
炭番になれば最高の能率を上げる炭番になった。
そして馬回り役になったら、自分の月給をさいてニンジンを買い、馬にやったという。
このため嫁さんが逃げてしまったということだが、そこに秀吉の偉大さがある。
馬番になったが「オレはこんな仕事はいやだ」などと言わずに、
日本一の馬番になろうと努力した。

つまり、いかなる環境にあっても、自分の最善を尽し、
一日一日を充実させ、それを積み重ねていく。
それが役に立つ人間であり、
そのようなことが人を成功に導いていく道だと思うのである。

精神大国をめざして

今日、わが国は経済大国と言われるまでになりましたが、
人びとの心の面、精神面を高めるということについては、
とかくなおざりにされがちだったように思います。
これからは経済面の充実とあわせて、お互い国民の道義道徳心、
良識を高め、明るく生き生きと日々の仕事に励みつつ、
自他ともに生かしあう共同生活をつくりあげていく。
あわせて日本だけでなく海外の人びと、ひいては人類相互のための奉仕、
貢献ができる豊かな精神に根ざした国家国民の姿を築きあげていく。
そのような精神大国、道徳大国とでも呼べる方向をめざして進むことが、
今日、国内的にも対外的にも、きわめて肝要ではないかと思うのです。

値引く以上のサービスを

商人は、自分の信念なり事業観に基づいて適正利潤というものを確保し、
顧客を大事にしつつ商人としての社会的責任を果たしていくことが肝要で、
それが社会共通の繁栄に結びつく望ましい姿だと思います。

そして、そうした望ましい商売をしていくためには適当にかけ引きをして値段をまけるというのではなく、
最初から十分勉強した適正な値段をつけて、それは値切られてもまけない、
逆にお客さんを説得し納得していただくということでなければいけません。
その上で“あの店は値引く以上に価値あるサービスをしてくれる”という評判をお客さんからいただくような商売をすることが大事だと思います。

とどめを刺す

日々のお互いの仕事の中で、もうちょっと念を入れておいたら、
とあとから後悔することが少なくないような気がする。

一生懸命に努力して、
せっかく九九%までの成果を上げても残りのわずか一%の「止め」がしっかりと刺されていなかったら、
それは結局はじめからやらなかったと同じことになる。
いや中途半端にやっただけ、むしろマイナスになる場合が多いのではあるまいか。
念には念を入れよ、である。
仕事を完全にやり通すのに念の入れ過ぎということはないのである。
とどめを刺さない仕事ぶりがあったら、
お互いにその不徹底を大いに恥とするほどの厳しい心がけを持ちたいものである。

死も生成発展

私は、人生とは“生成発展”、
つまり“日々新た”の姿であると考えています。
人間が生まれ死んでいくという一つの事象は、
人間の生成発展の姿なのです。
生も発展なら死も発展です。

人間は、今まで、ただ本能的に死をおそれ、忌みきらい、
これに耐えがたい恐怖心を抱いてきました。
人情としては無理もないことと思います。

しかし、われわれは生成発展の原理にめざめ、
死はおそるべきことでも、悲しむべきことでも、
つらいことでもなく、むしろ生成発展の一過程にすぎないこと、
万事が生長する一つの姿であることを知って、
死にも厳粛な喜びを見出したいと思います。

要求者たれ

経営者にとって、とくに大事な点は何かというと、
それは“要求者になる”ということだと思います。
社員の人たちに、会社の方針はこうだから、こういうようにやろうではないか、
諸君も努力して欲しい、という強い呼びかけを持つということです。
それが社長の仕事だと思います。社長がそういうことを言わなければ、
社員は何をどういうふうにやっていいのか分からないということになって、
力強いものは生まれてきません。

ですから、経営者は強い理想というか希望というものを打ち立てて、
これを社員のすべてに要望、要求することが肝要なのです。
要望を持たない社長は存在の意義がないと思うのです。

人間としての努め

命をかける--それは偉大なことです。
命をかける思いがあるならば、ものに取り組む態度というものがおのずと真剣になる。
したがって、ものの考え方が一新し、創意工夫ということも、次つぎに生まれてきます。
お互いの命が、生きて働くからです。

そうすると、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、
無限にわき出てくると言えるのではないでしょうか。
この無限にひそんでいるものを一つ一つ捜し求めていくのが、
人間の姿であり、私たちお互いの、人間としての勤めであると思います。
もうこれでいい、けっしてそう考えてはならない。
それは人間の勤めを怠る人だと私は思います。

不可能を可能にする

ある製品の価格を1年ほどの間に3割も引き下げて
注文をとっている会社のことが新聞の記事に載っていました。
以前は非常に儲けすぎていたのだと言えばそれまでです。
しかし、以前と言えどもある程度の利益以外は取っていなかっただろうと思いますし、
今度と言えども赤字ではやっていないだろうと思います。

そうすると、そこにはなんらかの工夫があったと考えられます。
経営の考え方とか、仕方に工夫をこらして、
価格を引き下げても引き合うという方法を見出しているのです。
そうした成果は、“不可能を可能にする道は必ずある”と
みずから考え努力していくところから生まれてくるものではないでしょうか。

労働は神聖なり

労働は神聖である。
その意識をお互いにつよく持ちたいものだと思う。

私は、労働は神聖であり、その聖職に当たっているのだという誇りから、
労働それ自体も、より価値あるものになるというか、
その能率、生産性も知らず識らずのうちに上がってくると思う。

そのように生産性が上がって、仕事の成果も高まれば、
それは労働者に、より大きな報酬資金をもたらすことになろう。
つまり、労働の喜びという精神的な面だけでなく、
物質的な面での向上進歩もあるわけで、言ってみればそうした意識、
誇りから物心一如の繁栄なり幸福なりが生まれてくると思うのである。

弁解より反省

仕事でもなんでも、物事がうまくいかない場合、
必ずそこに原因があるはずである。
だからうまくいかなかったときに、その原因を考えることは、
同じ失敗を重ねないためにも、きわめて大切である。

そのことは誰もが承知しているのであるが、
人間というものは往々にしてうまくいかない原因を究明し反省するよりも、
「こういう情況だったからうまくいかなかったのだ。
あんな思いがけないことが起こって、
それで失敗したのだ」というように弁解し、自分を納得させてしまう。
原因は自分が招いたことである、という思いに徹してこそ、
失敗の経験も生かされるのではないだろうか。

心をときはなつ

自由な発想の転換ができるということは、
指導者にとってきわめて大事なことである。
しかし、発想の転換ということはさかんに言われるが、
実際はなかなかむずかしい。
みずから自分の心をしばったり、せばめている場合が多いのである。

だから大事なことは、自分の心をときはなち、ひろげていくことである。
そしてたとえば、いままでオモテから見ていたものをウラから見、
またウラを見ていたものをオモテも見てみる。
そういったことをあらゆる機会にくり返していくことであろう。
そうした心の訓練によって、随所に発想の転換ができるようにしたいものである。

寛容の心で包含

世の中にはいい人ばかりはいない。
相当いい人もいるが相当悪い人もいるわけです。
ですから、きれいな人、心の清らかな人、
そういう人ばかりを世の中に望んでも実際にはなかなかその通りにはなりません。
十人いたらその中に必ず美ならざる者も正ならざる者も入ってくる。
そういう状態で活動を進めているのが、この広い世の中の姿ではないでしょうか。
そこに寛容ということが必要になってきます。

力弱き者、力強き者があるならば、両者が互いに包含し合って、
そこに総合した共同の力を生み出してゆく。
そういうところにわれわれ人間のいき方があるのではないかと私は思うのです。

くり返し訴える

経営者が、その思うところの考え、意志を社員に十分伝え、
浸透させようとするにはどうすればいいだろうか。

それは、何よりもまずくり返し話すことである。大切なこと、
相手に覚えてもらいたいことは、何度も何度もくり返して言う。
くり返し訴える。二度でも三度でも、五へんでも十ぺんでも言う。
そうすれば、いやでも頭に入る。覚えることになる。

またそれとあわせて、文字をつづって文章にしておく、ということも大切だと思う。
文章にしておけば、それを読みなさい、と言えば事が足りる。
読んでもらえば、くり返し訴えるのと同じことになる。

民主主義と勝手主義

民主主義というものは、自分がよければ人はどうでもいい、
というような勝手なものでは決してないと思うのです。
今日の日本の民主主義はわがまま勝手主義である。
勝手主義を民主主義の如く解釈している人が随分あるのではないか、
というような感じがします。

民主主義というものは、自分の権利も主張することは認められるが、
それと同時に他人の権利なり、福祉なりというものも認めてゆかなければならない。
そういうことをしなかったならば、
法律によってぴしっとやられるというような非常に戒律の厳しいものだと思います。
それがあってはじめて民主主義というものが保ち得るのだと思うのです。

権威を認める

一つの会社の経営でも、
また個々の責任者が一つの部署を運営する場合でも、
そこにみなが認めるような権威というものを求めて、
それに基づいて事を成していくことが能率的、
効果的な運営をしていく上できわめて大切だと思う。

会社の創業の精神、経営理念なり使命感、
あるいは経営者自身の人徳なり熱意、
そういったものをみなが得心して権威として認めるようになれば、
物事が能率的に治まっていく。
今日では権力というものを否定する風潮が強く、
さらにそれが進んでいい意味の権威までも認めないような傾向もみられるが、
それはかえって非能率を生むものであるとも言えるのではないだろうか。

成功するまで続ける

何事によらず、志を立てて事を始めたら、少少うまくいかないとか、
失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。
一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、
ほんとうに物事を成し遂げていくことはできない。

世の中は常に変化し、流動しているものである。
一度は失敗し、志を得なくても、それにめげず、辛抱強く地道な努力を重ねていくうちに、
周囲の情勢が有利に転換して、新たな道が開けてくるということもあろう。
世に言う失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。
最後の最後まで諦めてはいけないのである。

自分の働きの価値は

皆さんは自分の働きの価値というものをどのように考えているでしょうか。
かりに月給が10万円の人であれば、
10万円の仕事をしたのでは会社には何も残らないことになります。
私は自分が10万円もらっていれば、
少なくとも30万円、できれば100万円ぐらいの仕事をしなくてはいけないと考えます。
そうすれば会社に金が残ります。
その金は会社だけでなく社会へ還元されるわけです。
会社から10万円もらって8万円の仕事をしていたなら、
会社は2万円損ですから、そういう人ばかりだと、
その会社は潰れてしまいます。
会社に働く者としては、
そういうことを絶えず頭に置いておく必要があると思います。

自分を戒めるために

松下電器では、昭和八年に“遵奉すべき五大精神”を定め発表して以来、
日の朝会で唱和している(十二年に二精神を加え七精神)。
これはもちろん、社員としての心がまえを説いたものであるが、
それと同時に私自身を鞭撻するためのものである。
みんなで確認しあった使命であっても、何もなければついつい忘れていきがちになる。
だから毎日の仕事のスタート時にかみしめる。
言ってみれば自分への戒めである。

人間は頼りないものである。
いかに強い決意をしても、時間がたてばやがてそれが弱まってくる。
だからそれを防ぐためには、常に自分自身に言い聞かせる。
自分に対する説得、戒めを続けなければならない。

部下に使われる

一般に、形の上では指導者が人を使って仕事をしているようにみえるが、
見方によっては指導者の方が使われているのだとも言える。
だから、口では「ああせいこうせい」と命令しても心の奥底では、
「頼みます」「お願いします」さらには「祈ります」といった気持を持つことが大事だと思う。
そういうものを持たずして、
ただ命令しさえすれば人は動くと思ったら大変なまちがいである。
指導者は一面部下に使われるという心持を持たねばならないのである。
こうした心境があって、はじめて部下に信頼される大将になり得るのである。

特に大きな組織、集団の指導者ほど、
この心がまえに徹することが必要だと言えよう。

立場を交換する

たとえば経営者と労働組合、与党と野党の関係など、
社会では対立して相争うという姿が各所に見られる。
その結果、精神的にいがみ合いがあるばかりでなく、
物事の円滑な進行が妨げられ、そこから大きなロスが生まれている。

そういう傾向になりがちなのは、
やはりそれぞれが自分の立場中心にものを見るからではないだろうか。
自分の立場中心に考えれば、
どうしても自分というものにとらわれてものの見方がせまくなり、
全体が見えにくくなってしまう。
だからときに相手の立場にわが身を置く気持で、
お互いの立場を交換して考えてみてはどうか。
そうすることによって相互の理解も深まり、
合意点も見出せるのではないだろうか。

企業は儲けるべし

企業というものは、終始一貫、
どうすれば合理化できるか、どうすればムダな経費が省けるかと、一生懸命汗を流し、
工夫し、そして苦心惨憺してやっと一定の利益を上げているのです。
そして利益の大半を税金として納めています。
企業も国民も、みんなが働いてプラスを生んで、
税金を納めているから国の財源ができるわけです。
どこも儲けなければ、税金もおさめられない。
とすれば国の財源はどこから集め得るのでしょうか。

企業は儲けてはいけないということであるなら、経営は簡単です。
努力もいらなければ創意工夫もしなくていいのですから。
それで国が成り立っていくのであれば何も苦労はいりません。

商品の段位を高める

いま、新しい開発商品が十品できたとします。
十品とも碁や将棋にたとえると、初段の資格がある、
いわゆる一人前の商品として一応は売れていくわけです。
しかし、そのうちのどれか、これというものを取り上げて、
一品くらいは永遠に名人として残っていく、
という姿を生み出すことができないものかと思います。

今までの姿には、新製品ができて少し日がたつと、
もう旧製品として消えていくのが当たり前、という考え方がありました。
しかし初段のものを今度は二段にする、三段にする、
四段にすることによって名人までもっていく。
そういうことをたえず考えていく必要があると思うのです。

ふりこの如く

時計のふりこは、右にふれ左にふれる。
そして休みなく時がきざまれる。
それが原則であり、時計が生きている証拠であると言ってよい。

世の中も、また人生もかくの如し。右にゆれ左にゆれる。
ゆれてこそ、世の中は生きているのである。躍動しているのである。

しかし、ここで大事なことは、右にゆれ左にゆれるといっても、
そのゆれ方が中庸を得なければならぬということである。
右にゆれ左にゆれるその振幅が適切適性であってこそ、
そこから繁栄が生み出されてくる。小さくふれてもいけないし、
大きくふれてもいけない。
中庸を得た適切なふれ方、ゆれ方が大事なのである。

見る前に察する

不当な競争は断じていけませんが、
正常な競争には進んで乗りださなければ、進歩がありません。
またその競争には勝たねばなりません。

その場合、問題は相手の差し手を、
それが形に表われないうちに感じることができるかどうかにあります。
相手の企画が商品として市場に出てきてから、
あれはいいな、うちでもやろうか、では遅いのです。
まだ目に見えないものを、なんとなく感じる。
むずかしいがそれをやるのが競争に勝つ経営というものです。
ましてや相手の商品を見てすぐに手を打つならまだしも、
それが売れ出してやっとみこしを上げるようでは
“後手”にまわるもはなはだしいと言うべきです。

部下のために死ぬ

経営者に求められるものはいろいろありましょうが、
自分は部下のために死ぬ覚悟があるかどうかが一番の問題だと思います。
そういう覚悟ができていない大将であれば、部下も心から敬服して、
ほんとうにその人のために働こうということにはならないでしょう。
経営者の方も、そういうものを持たないと、妙に遠慮したり、
恐れたりして社員を叱ることもできなくなります。
それでは社内に混乱が起こることにもなってしまいます。

ですから、やはり経営者たるものは、
いざというときには部下のために死ぬというほどの思いで、
日々の経営に当たるのでなければ力強い発展は期し得ないと思うのです。

大器晩成ということ

よく世間では、あの人は大器晩成型などと言いますが、
その場合はどちらかといえば、あまりほめたようには使わないことが多いようです。
つまり、いまはまあまあだけれども、そのうちになんとか一人前になるだろう、といった調子です。
しかし私は、この大器晩成というのは、もっと大事な意味を持っているのではないかと思うのです。

真の大器晩成型というものは、人生は終生勉強であるという考えを持って、
ウサギとカメの昔話のカメのように、一歩一歩急がずあわてず日々精進し、
進歩向上していく姿ではないかと思います。
そういう姿をめざすことがお互いに大切だと思うのです。

職種と適性

文化が進むと職種が増え、自分の好む職種というものが、
だんだんと選びやすくなってきます。
そしてそこに生きがい、働きがいが求めやすくなってくるだろうと思います。
しかし、今日のところは、まだ十分でなく、この仕事はあまり自分には適していないが、
まあこれで甘んじていようかという場合もあると思います。
けれども昔からみると、非常に恵まれています。

そう考えてみると、今日に生きるわれわれは、非常に幸せだと思います。
自分の好む仕事を求めやすい時代です。
こういう時代に生まれながら、もしも仕事に生きがい、
喜びを感じないというのであれば、
それは原則として許されないことになると思うのです。

日本人としての自覚と誇り

“国破れて山河あり”という言葉があります。
たとえ国が滅んでも自然の山河は変わらないという意味ですが、
山河はまた、われわれの心のふるさととも言えましょう。
歴史に幾変転はあっても、人のふるさとを想う心には変わりはありません。
この国に祖先が培ってきた伝統の精神、国民精神もまた変わることなく、
お互い人間の基本的な心構えであると思います。

われわれは日本という尊いふるさとを持っています。
これを自覚し誇りとし活動する、そこにはじめて、
お互いに納得のいく動きが起こるのではないでしょうか。
日本人としての自覚や誇りのないところには、
日本の政治も経済もないと思うのです。

生産者の感激

私が昔、直接生産に従事していたとき、新しい品物を代理店へ持参して見せると、
「松下さん、これは苦心された品ですね」と言われたことがあります。
こう言われたとき、私は無料で進呈したいと思ったほど嬉しかったのです。
これは高く売れて儲かるという欲望的な意識でなくて、
よくぞ数カ月の造る労苦を認めてくださったという純粋な感激だったのです。

こうした感激は、常に自分の魂と至誠を製品にこめる者のみが味わい得るものだと思います。
そしてそのような喜びに全社員がひたりつつ生産してこそ、
確固たる社会信用を獲得することのできる製品を生み出すことが可能になるのではないでしょうか。

人の世は雲の流れの如し

青い空に、ゆったりと白い雲が流れていく。
常日ごろ、あわただしさのままに、意識もしなかった雲の流れである。
速くおそく、大きく小さく、白く淡く、高く低く、ひとときも同じ姿を保ってはいない。
崩れるが如く崩れざるが如く、一瞬一瞬その形を変えて、
青い空の中ほどを、さまざまに流れてゆく。

これはまさに、人の心、人のさだめに似ている。
人の心は日に日に変わっていく。
そして、人の境遇もまた、きのうときょうは同じではないのである。
喜びもよし、悲しみもまたよし、人の世は雲の流れの如し。
そう思い定めれば、そこにまた人生の妙味も味わえるのではないだろうか。

まず与えよう

持ちつ持たれつという言葉もあるが、
この世の中は、お互いに与え合い、与えられ合うことによって成り立っている。
それはお金とか品物といった物質的な面もあれば、思いやりといったような心の面もある。

聖書の中にも、「与うるは受くるより幸いなり」という言葉があるというが、
人間とは他からもらうことも嬉しいが、他に与え、
他を喜ばすことにより大きな喜びを感じるというところがあると思う。
そういう喜びをみずから味わいつつ、
しかも自分を含めた社会全体をより豊かにしていくことができるのである。

「まず与えよう」これをお互いの合言葉にしたいと思うのだが、どうであろうか。

使命感半分、給料半分

人間には、“欲と二人連れ”という言葉もあるように、
自分の利によって動くという面と、使命に殉ずるというか、
世のため人のために尽すところに喜びを感ずるといった面がある。
だから人を使うにしても、給料だけを高くすればいいというのでなく、
やはり使命感というものも持たせるようにしなくてはほんとうには人は動かない。
もちろん使命感だけで、給料は低いというのでも、
これはよほど立派な人でない限り不満を持つだろう。
普通の人間であれば、使命感半分、給料半分というところだと思う。

そのようなあるがままの人間性に則した処遇をしていくところに、
適切な人の使い方があると言えよう。

社長を使う

私はいつも社長をもっと使ってくれというのです。
「こういう問題が起こっているのです。
これは一ぺん社長が顔を出してください。
社長に顔出してもらったら向うも満足します。」
「それなら喜んで行こう」というわけです。
こういうように社長を使うような社員にならなければならないと思うのです。
その会社に社長を使う人間が何人いるか、一人もいなかったらその会社はだめです。
しかしほんとうに社長を使う人間が、その会社に十人できたら、
その会社は無限に発展すると思います。

また、社長を使わなくても課長や主任を使う。
上司が部下を使うことは、普通の姿です。
部下が上司を使うことが大事なのです。

こわさを知る

人はそれぞれにこわいものを持っています。
子どもが親をこわいと感じたり、社員は社長をこわいと思ったり、
世間がこわいと思ったりします。
しかしそれとともに、自分自身がこわいという場合があります。
ともすれば怠け心が起こるのがこわい、
傲慢になりがちなのがこわいというようなものです。

私はこのこわさを持つことが大切だと思います。
こわさを常に心にいだき、おそれを感じつつ、日々の努力を重ねていく。
そこに慎み深さが生まれ、自分の行動に反省をする余裕が生まれてくると思うのです。
そしてそこから、自分の正しい道を選ぶ的確な判断も、よりできるようになると思います。

インテリの弱さ

今日、よく耳にする言葉に“インテリの弱さ”ということがある。
これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、
それにとらわれてしまい、それはできないとか、
それはどう考えてもムリだ、と思い込んでしまって、
なかなか実行にうつさないという一面を言った言葉だと思う。

実際、“ああ、それは今まで何度もやってみたんだが、
できないんだ”と決め込んでいることが、
われわれの身のまわりには意外に多いのではなかろうか。
ときには、自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、
純粋な疑問、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。

良品を世に送る努力

どんなによい製品をつくっても、
それを世の人びとに知ってもらわなければ意味がありません。
つくった良品をより早く社会にお知らせし、
人びとの生活に役立ててもらうという意味で、
宣伝広告というものは、欠くべからざるものと言えるでしょう。

しかし、その一方で、そういった宣伝がなくても、良い評判を受け、
大いに信用をかち得ている製品があります。
これは、良品はみずから声を放たず、
これを求めた人びとによって広く社会に伝えられたということに他なりません。
そういう宣伝に頼る必要のない、ほんとうにすぐれた品質の製品を生み出し、
世に送る努力を常に忘れてはならないと思うのです。

人の話に耳を傾ける

日ごろ部下の言うことをよく聞く人のところでは比較的人が育っている。
それに対して、あまり耳を傾けない人の下では人が育ちにくい。
そういう傾向があるように思われる。

なぜそうなるかというと、やはり部下の言葉に耳を傾けることによって、
部下が自主的にものを考えるようになり、そのことがその人を成長させるのだと思う。
けれども、自分の言うことに上司が耳を傾けてくれない、
というのではただ惰性で仕事をするということになって成長も止まってしまう。

上司としてどんな場合でも大事なのは“耳を傾ける”という基本的な心構えをいつも持っているということであろう。

地球人意識

いま世界は、本格的な国際化時代を迎えつつあります。
政治、経済、あるいは資源、食料などの問題にしても、
一国の問題がすぐ世界の多くの国ぐにに影響を与えることが少なくありません。r その意味では、世界は非常に狭くなったと言えましょう。
それだけに、たんに自国の問題をのみ考えるのではなく、もっと視野を広くして、
地球人の一員という意識でものを考え、行なうことが大事だと思います。
たとえば、援助を願っている国があるとすれば、
他の国ぐにはそれぞれの実力に応じて助け合うべきでしょう。
そのようにお互い地球人といった意識を持って、
なすべきことをなすということが基本の心がまえになると思うのです。

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