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2010年10月16日 (土)

松下幸之助 一日一話の過去ログ 其の壱

松下幸之助 一日一話の過去ログです。
続きから御覧下さいませ


諸行無常の教え

その昔、お釈迦さまは、
“諸行無常”ということを説かれました。
この教えは、一般には“世ははかないものだ”という意味に解釈されているようですが、
私はむしろ“諸行”とは“万物”、“無常”とは“流転”と考え、
諸行無常とは、すなわち万物流転であり、
生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。
言いかえますとお釈迦さまは、
日に新たでなければならないぞ、
ということを教えられたのだということです。

これはたんに仏教だけの問題でなく、
お互いの日々の仕事をはじめ、お互いの人生、
社会のあらゆる面に当てはまるのではないでしょうか。

紙一枚の差

社会に対する責任ということを同じように考えてやっていても、
その徹し方には差がある。
一方は「これで十分だ」と考えるが、
もう一方は「まだ足りないかもしれない」と考える。
そうしたいわば紙一枚の差が、
大きな成果の違いを生む。
もう十分だと考えると、
苦情があっても「ああ言うが、うちも十分やっているのだから」ということになって、
つい反論する。
けれどもまだ足りないと思えば、
そうした苦情に対しても敏感に受け入れ、
対処していくということになる。
そういうことが、商品、技術、販売の上に、
さらに経営全般に行われれば、
年月を重ねるにつれて立派な業績を上げることになるわけである。

商品を発意する

商売をしている人は、
その商品を買って使われる人の立場というものが一番よくわかります。
ご需要家のみなさまが商品について日ごろ抱いておられるご不満、
ご要望というものを聞く機会が一番多いのが商人でしょう。
したがって、真にお客さまの要望にそった商売をするためには、
そのご不満なりご要望を聞きっぱなしにするのでなく、
それを自分で十分に咀嚼し、商人としての自分のアイデアを考え出す。
いわば、みずから商品を発意してそれをメーカーに伝え、 そこまでしてこそはじめて、
真に社会に有益なほんとうの商売というものも可能になるのではないでしょうか。

国土を大切にする

日本の国土ほど風光明媚で、気候が温和な国はそうないのではないでしょうか。
しかも長年にわたって、非常にすぐれた日本独自の文化と国民性とを養い育ててきました。
今後ともこの国土の存するかぎり、
日本のすぐれた文化と国民性は永遠に失せないでしょう。

とは言え、日本国民全体が、
自分たちのこの国土を大切にするという強い意識を持つことがきわめて大事だと思います。
そして、この国土によって今までにはぐくまれてきた伝統の精神というものを十分に理解、
認識し、そしてさらにすぐれた文化の花を咲かせるよう努めていくことが、
今日の日本人の尊い使命だと思います。

経営は総合芸術

経営者の仕事は、
画家などの芸術家の創造活動と軌を一にするものだと考える。
一つの事業の構想を考え、計画を立てる。
それに基づいて資金を求め、工場その他の施設をつくり、
人を得、製品を開発し、それを生産し、人びとの用に立てる。
その過程というものは、画家が絵を描くごとく、これすべて創造の連続だと言えよう。

なるほど、形だけみれば単に物をつくっていると見えるかもしれないが、
その過程にはいたるところに経営者の精神が生き生きと躍動しているのである。
その意味において、経営はきわめて価値の高い、
いわば総合芸術ともいうべきものだと思います。

物心にバランスある姿

今日のわが国では、
科学の進歩、経済的な発展にくらべて、
国民の道義道徳心なり良識というものに、
非常に脆弱な面があるのではないか、という声がある。
たしかに今日では、何が正しいか、
いかにあるべきかという点があいまいになってきているように思われる。

やはり、人間らしい生活を営むには、
単に科学が進歩し、物質的に豊かになるばかりでなく、
人としての良識というか、
精神面の豊かさというものが並行して養われる必要があると思う。
つまり、身も豊か、心も豊かというバランスのとれた豊かさのもとに、
はじめて平和で、人間らしい幸せな生活をおくることができるのではないだろうか。

大事に立てば立つほど

困難期、混乱期に際して大事なことは、
根本的な心の迷いをとり除いて、
しっかりと心を確立してゆくということです。
志をかたく堅持して、そして事に立ち向うことができるなら、
その時に応じて最善と考えられる具体的な方策は、
適切に出てくるものだと思います。
その志を確固として持つことなしに混乱期に直面すれば、
あれこれと心が迷うことになって、
事が失敗に終わる場合が少なくないと思うのです。
まさに“貧すれば、鈍する”です。

大事に立てば立つほど、
どう生きるかについてのしっかりした信念を持つ。
そうして事に当たれば、
ある程度の処置を過たずしてできるものだと思います。

人を中心とした経営

会社の経営というものは、
なんといっても人が中心となって運営されていくものです。
組織も大事ですが、それは第二義的に考えられるもので、
まず人が中心である、というように考えねばならないと思います。

国の政治などは、政治の組織、機構というものが先にあって、
それに当てはまる人が就任されて国政をとりますが、
一般にはやはり人を中心に考えなければいけないと思います。
組織は人を活かすために適切につくってゆくべきものと、
こう考えていいのではないでしょうか。

そしてそのためには、やはり一人ひとりの力、
各自の能力というものが非常に重大な問題になってくると思うのです。

進歩への貢献者

商品をつくる方は、
もちろん今日現在はそれが最善だと思って出すのですが、
日進月歩の世の中ですから、
日とともに新しいアイデアが生まれてきます。
ですから、
お客さんの中には「あとから買った人は非常にいいものが手に入るから、先に買った人は損だ」と言われる方もあります。

しかし、商品というものは最初に買う人がいなければ進歩しません。
先に買う人は、私が金を投じて買ったから、多くの人に行きわたることになった。
私は貢献者なんだ。
同時に自分は一番早くその便益を得たから、
むしろ得をしたんだ、
とこう考えることによって世の中は発展すると思うのです。

体力と気力と経験

人間の体力というものは、
三十歳前後が頂上であろう。
一方、気力ということになると、
私の常識的な体験から言えば、
四十歳ぐらいが最高になり、
これを過ぎると、
次第に衰えてくるのではなかろうか。
もちろん気力は落ちても、
立派に仕事はできる。というのは、
それまでのその人の経験というものが、
その気力の衰えを支えるからである。

それと、もう一つは先輩として尊ばれ、
後輩たちの後押しによって、
少々困難なことでも立派に遂行できるようになる。
こうした力が加わるからこそ、
歳をとって気力、
体力ともに若い人たちにとてもかなわないようになっても、
支障なく仕事が進められるのではなかろうか。

休日の裏づけ

文化的で繁栄した生活を営むのは、人みなの願いです。
わが国でも、最近、休日を増やすということが話題に上がっていますが、
休日を単に怠けた姿としてではなく、
積極的に生活を楽しむというように考えてきつつあるのは、
一つの進んだ姿として、好ましいことだと思います。

しかし、ただ単に休みを多くするというだけで、
そこに生産の高まりという裏づけがなかったならば、
お互いの収入は減るばかりで、
かえって生活の程度は下がってしまうでしょう。
原始の時代から、お互いに人間は、
生産の高まりとともに生活を高め、
しかも休息と慰安の時間を次第に多くしてきたのです。
それが社会発展の一つの姿と言えるのです。

経営の若さとは

一般的に人間は年齢を加えるとともに若さが失われていきます。
けれども、そういう中でも、なお若さを失わないという人もいます。
それはどういうことかというと、心の若さです。

企業においても、大切なのはそういう精神的若さでしょう。
言いかえれば、経営の上に若さがあるかどうかということです。
そして、経営の若さとは、
すなわちその企業を構成する人々の精神的若さ、
とりわけ経営者におけるそれではないかと思うのです。
経営者自身の心に躍動する若々しさがあれば、
それは全従業員にも伝わり、
経営のあらゆる面に若さが生まれて、
何十年という伝統ある企業でも若さにあふれた活動ができるようになると思います。

心を磨く

人間の心というものは、
ほんとうに自由自在なものだと思います。
何か困難な問題が起こったとしても、
心の働きによっていかようにでも考えられると思うのです。
もう辛抱できない、
あしたにでも自殺したいという場合でも、
考え方を変えるならば、一転して、
あたかもひろびろとした大海をゆくがごとき悠々とした心境に転回することさえできるのです。
それが人間の心の働きというものでしょう。

ですからわれわれは、
これから仕事をするに当たって、
まず心を磨くというか、
ものの考え方を成長させる必要があります。
そういう心の働きに、
今まで得た知識を加えてやっていけば、
必ず大きな成果が生まれると思います。

千差万別の人間

人間は千差万別の姿と心に生まれついています。
従ってそれぞれの持つ使命も天分も、
全部異なっているのではないかと考えられます。

しかし現実の社会では、
すべてを一つの型にはめよう、
規制しよう、同じ道を歩ませようとするきらいが多分にあるように思われます。
もちろんこうした考え方は、
一面においては必要なのですが、
世の中を全部そういう考え方、
ものの見方で通そうとすることは、
決して社会の進歩にはつながらないでしょう。

ですから、人間がそれぞれに持っている特性というものをよく認識し、
その特性を生かしていける共同生活を考え出さなければならないと思うのです。

強く人を求める

事をなすに当たって、
人を得るかどうかはきわめて大事なことである。
それによって事の成否は決まると言ってもよい。

それではどうしたら“人”が得られるのだろうか。
これは大きく言えば、
運とか縁によると考えられるだろうが、
やはり強く人を求める心があってこそ、
人材も集まってくるのだと思う。
ただなんとなくすぐれた人材が集まってくるということはまずあり得ないだろう。
すべてのものは要求のあるところに生まれてくるものである。

人材の不足を嘆く前に、
まずみずからどれほど強く人を求めているかを自問自答してみる必要もあるのではなかろうか。

法治国家は中進国

今日、法治国家というのは、
だいたい先進国ということになっていますが、
私は法治国家は真の先進国とは言えないのではないか、
という気がします。
是非善悪が何でも法律で決せられる法治国家は、
いわば中進国であって、
真の先進国、文明国とは、
法律がきわめて少なく、
いわゆる法三章で治まっていく国、
それだけ国民の良識が高い国ということではないかと思うのです。

とすれば、真の先進国になるためには、
やはり国民の良識の涵養というものを大いにはかっていかなければなりません。
そのことに成功しない限りは、
先進国にはなれないのではないかと思うのです。

感謝する心

今日の社会においては、
われわれはどんなに力んでみたところで、
ただ一人では生きてゆけない。
やはり親兄弟はじめ多くの人びと、
また人ばかりでなく、
周囲に存する物や環境、
さらには自分たちの祖先や神仏、
自然の恵みのもとに暮らしている。
そういうものに対して、
素直に感謝する心を持つということは、
人としていわば当然のことであり、
決して忘れてはならない態度だと思う。

もしそういう感謝の心を持たないということになるならば、
お互いの生活はきわめて味気ない殺伐としたものになるであろう。
常に感謝の心を持って接してこそ、
他人の立場も尊重して行動するということも可能になってくる。

商品はわが娘

私どもが日々扱っている商品は、
言うなれば永く手塩にかけたわが娘のようなものだと思います。
ですから商品をお買いあげいただくことは、
自分の娘を嫁にやることであり、
お得意先はかわいい娘の嫁ぎ先だとも言えましょう。

そう考えると、その商品が十分お役に立っているかどうか心配になって、
ちょっと様子を見てみようという気が起きてくるのではないでしょうか。
そういう思いで日々仕事に取り組んでいるならば、
お得意先との間に単なる商売を越えた、
より深い信頼関係、力強い結びつきが生まれてくると思います。
お互い商品を自分の娘というほどに考えているかどうか、
改めて考え直してみたいものです。

組織や地位にとらわれない

今日、企業界、各企業の間における競争というものは、
非常に激烈なものがある。
この厳しい競争において、
瞬間を争う大事な事柄を報告するいわば非常の場合に、
何としてもまず直接の上司に言わねばならないんだとか、
やはり組織を通じて処理しなければ叱られるんだとか言っていたのでは、
競争に負けてしまうようなこともあろう。
事の順序としては、
もちろん直接の上司の人にまず言うべきではあるけれども、
どうしても急を要する場合は、
組織や地位にとらわれず、
即刻処理してゆくことが大切だと思う。

何か事あるときには、
全員が打てば響くような素早さで活動しなければいけない。

二代目は熱意で勝負

先代が築いた基盤を受け継ぎ、
若い二代目の人が社長に就任する場合、
それなりのむずかしさが当然あると思います。

そこで、一つの行き方としては、
まず、会社の古くからいる先輩の人に「私はこう思っているのだがどうでしょう」と、
うるさいほど熱心に相談をもちかけていくことだと思います。
そうしていけば、その熱心さが必ず相手に伝わり、信頼感を生むと思います。
また、そういう熱意にあふれた姿に対しては、
社員が頼もしさを感じて自然と助けてくれるようになります。
ですから、そのような腹の底からの熱意を持ちうるかどうか、
それが二代目社長としての勝負の一つの分かれ目である、という気がします。

真剣に取り組む

大相撲は相変わらずの人気である。
私はその勝負が一瞬の間に決まるというところが好きである。
力士の人たちは、その一瞬の勝負のために、
毎日朝早くから夜おそくまで文字通り血のにじむような鍛錬をし、
稽古にはげんでいる。
そしてその成果を土俵の上で一瞬の間に出し尽そうというわけだ。

われわれも、いま自分の担当している仕事を本業として、
これに打ち込んでいるだろうか。
大相撲の人気というものの裏には、
日夜稽古にはげむ力士の姿があることを思って、
われわれもまた、自分の人生、
自分の本業というものに対して日々真剣に取り組んでゆきたいものである。

信賞必罰

“信賞必罰”すなわち、罰すべき罪過ある者は必ず罰し、
賞すべき功ある者は必ず賞せよということ、
これは人間が存在するかぎり、
程度の差はあっても絶対に必要なことであろう。
これが行なわれない国家社会は、
次第に人身が倦み、やがては必ず崩壊してしまうだろう。
国家だけではない。
会社、集団、家庭どこにおいても、
これは決してないがしろにされてはいけないことだと思う。

ただ、ここで大事なことは、
信賞必罰といっても、
常に適時適切でなければならないということである。
これは微妙にして非常にむつかしいことで、
これが当を得なかったならば、
かえって事を誤ってしまうことになる。

人に尋ねる

自分の才能に向くような仕事を自分で考えて進んでいくことが非常に大事だと思う。
ところが、自分の才能というものは、
自分ではなかなかわからない。
そのときには自分の信頼する人の言葉を聞くとよい。
しかし素直な気持で聞かないと、
先輩の正しい言葉が正しく自分の耳に入らない。

私も、自分でわからないことは、
素直な心持になって先輩に尋ねることにしている。
そして静かに考えていけば、
必ず行く道は自然に決まってきて、
希望が持てると思う。
しかし、野心とか欲望とかいうものを強く持つと、
そこに無理が生じ迷いが起こってくるような気がするのである。

永遠に消えないもの

高野山にはたくさんの墓があります。
その中で一段と目立つ立派な墓は、
おおむね大名の墓だそうですが、
その大名の墓も、今日では無縁仏になっているものもあるということです。
昔は相当の一家眷族を養い、
しかも明治になってさらに華族として、
財産も保護されるという状態が長く続いたにもかかわらず、
そういう変化があったということを考えてみますと、
人間のはかなさというものを身にしみて感じます。

やはり世の中というものは形ではない。
いくら地位があり財産があっても、
それはいつまでも続くものではない。
結局、永遠に消えないものはその人の心であり、
思想であり、この世で果たした業績である、
そう思うのです。

平和のための前提条件

平和が大切だということは、
何千年も前から繰り返し唱えられているにもかかわらず、
その一方では戦争をしている。
はなはだしきは、
平和のための闘争とか戦争といったことが口にされ、
行なわれているというのが、
過去、現在における人間の姿だと言えましょう。

それでは、そのような状態を脱却し、
平和を実現する前提として、
何が必要かというと、
人間としての意識革命では
ないかと思います。
つまり、真の平和というものをはっきり見きわめ、
心からそれを切望するというような一人ひとりの意識革命が、
一国の政治の上にも教育の上にも醸成されていくならば、
求めずして平和は生まれてくると思います。

中小企業は社会の基盤

私は中小企業というものは、
日本経済の基盤であり、
根幹であると思う。
それが健在であってこそ、
大企業も持ち味を生かすことができるし、
経済全体の繁栄も可能になる。とともに、
中小企業は単に経済においてだけでなく、
いわば社会生活の基盤にもなるべきものだと思う。
つまり、いろいろな適性を持った人が、
それぞれに色とりどりの花を咲かす、
そういった社会の姿がより望ましいのであり、
そこに人間生活の喜びというものもあるのではないだろうか。

その意味において、たくさんの中小企業が、
それぞれにところを得て、
さかんな活動をしているというような社会の姿が一番理想的なのではないかと思う。

立ち話の会議

社長が実際の仕事についてあまり知らず、
会議で「どうだ君、やれると思うのだがどうだ」というようなことを言っていると、
甲論乙駁、議論百出となって、
三日ぐらいもかかることになりかねません。
それはいささか極端ですが、
会議というものは概してそのような傾向が強いのではないでしょうか。
それでは何かにつけてテンポの速い今日の世の中では、
結論が出たときにはもう状況が変わっているということにもなりかねません。

ですから会議だからといって、
会議室に集まり椅子に座ってするというのではなく、
言うなれば立ち話で会議をして即決するというくらいの心構えが必要だと思います。

仕事を味わう

私はどんな仕事であれ、
ほんとうにそれが自分に適したものかどうかを見きわめるのは、
それほど容易なことではない、
仕事というものは、もっともっと深いというか、
味わいのあるものだと思います。
最初はつまらないと思えた仕事でも、
何年間かこれに取り組んでいるうちに
だんだんと興味が湧いてくる。
そしていままで知らなかった自分の適性というものが開発されてくる。
そういうことも仕事を進めてゆく過程で起こってくるものです。
つまり、仕事というものはやればやるほど味の出てくるもので、
辛抱をして取り組んでいるうちに、だんだんと仕事の味、
喜びといったものを見出していくことができるのだと思います。

豊かさに見合った厳しさ

暮らしが豊かになればなるほど、
一方で厳しい鍛錬が必要になってくる。
つまり、貧しい家庭なら、
生活そのものによって鍛えられるから
親に厳しさがなくても、
いたわりだけで十分、子どもは育つ。
けれども豊かになった段階においては、
精神的に非常に厳しいものを
与えなければいけない。
その豊かさにふさわしい
厳しさがなければ、
人間はそれだけ心身ともに
なまってくるわけである。

しかるに、いまの家庭には
そういう厳しさが足りない。
政治の上にも、教育の上にも足りない。
それが中学や高校の生徒が
いろいろと不祥事件を起こしている
一つの大きな原因になっているのではないだろうか。

愚痴の言える部下を持つ

憤慨したときに憤慨できる
相手があったら一番楽ですな。
つまり早く言えば最高首脳者として、
愚痴を言える部下が必要だということです。
それが副社長でも専務でも、
あるいは秘書でもいい、
そういう人があれば幸せですな。

どんなにえらい人でも
愚痴のはけ場がなかったら鬱積しますわ。
そうするとあやまちをします。
太閤秀吉でも、
石田三成を可愛がったといいますけど、
あれはやっぱり愚痴を石田三成に
もっていったんだと思います。
そうすると三成はそれを適当にうけて、
うまい具合に機嫌をとったんですわ。
そうすると太閤さんは頭がすっとして、
またいい知恵を出したということでしょう。

一人の責任

会社が発展するのも失敗するのも、
結局はすべて社長一人の責任ではなかろうか。
というのは、もし社長が“東へ行け”と言うのに、
“いや私は西へ行きます”と言って
反対の方向に行く社員はまずいないからである。
ほとんどの社員は、社長が東へ行こうと言えば、
みな東へ行く。だから、“東へ行け”と言って、
もし間違ったとしたら、
それは社長一人の責任に他ならないわけである。
同じように、一つの部、
一つの課が発展するかしないかは、
すべて部長一人、課長一人の責任である。

私は、いままでいかなる場合でも、
そう考えて、
自問自答しながら事をすすめるよう努めてきた。

精神的大家族

核家族の風潮というのは、
いい悪いは別にして、天下の大勢です。
大きな流れです。
けれどもそれは形の上でそうなのであって、
精神の上では核家族になってはいけないと思います。
あたかも大家族のごとく、年老いた老人には、
家族の人たちが絶えず心を
通わせるようにしなければなりません。
たとえば、三日に一ぺんは電話で声をかけてあげるとか、
そういうつながりがなければいけないと思います。

世の中が進歩したら、
それぞれ活動する場所が増えますから、
どうしても離れ離れになって、
大家族という形はとれません。
だから一方でそれを集約する
精神的なつながりが
一層必要だと思うのです。

いつくしむ

昔、仁徳天皇は、
国中に炊事のけむりの乏しいのを見て人民の困窮を知り、
三年間課役を中止し、
三年後国中にけむりが満ちてはじめて、
「民富めり」と再び租税を課された。
その間は皇居も荒れ、
雨がもるほどであっても
修理されなかったという。
これは伝説かもしれないが、
しかし大事なことは、
そのように人民を
いつくしむ仁慈の心を持つことが、
昔からの指導者のあるべき姿とされてきたことである。
そこに日本の一つのよき伝統があり、
そういうところから封建時代でさえ
数々の名君が生まれたのであろう。
そのことが栄えるもとだったのである。
民主主義の今日でも、
指導者はまず人びとの幸せを
願う仁慈の心を持たねばならないと思う。

商売と誠意

誠意にあふれ、
真剣な思いに満ちた行動は
必ず人びとの心をとらえずにはおきません。

誠意をもって熱心に仕事に取り組んでいる人は
常に「こうしてはどうだろうか」とか、
「この次にはこんな方法でお客さんに話してみよう」
というように工夫をこらし、
いろいろ効果的な方法を考えます。
また同じことを説明するにしても、
その話し方に自然と熱がこもり、
気迫があふれます。
そうするとお客さんの方でも
その熱心さに打たれ、
「どうせ買うならこの人から」
ということになってくるわけです。
そういう日々の仕事の態度というものが、
やがては大きな差となって
表われてくるのではないでしょうか。

予算にとらわれない

一国の運営をお金の面からみますと、
いわゆる予算というものを組んで、
それに基づいてさまざまな施策を行なっています。
お互いの商売でも、
同じように予算というものによって、
これを進めていく場合が少なくないと思います。

しかし、商売というものは、
実際予算どおりに動くものではない。
したがって、予算がない、
ということで必要なことの実施を
延ばしたりするのでは
お客様はどんどん他へ流れていってしまうと思います。
予算によって商売をしていくことはもちろん大切ですが、
それはあくまで内輪の心づもりであって、
外部に対して必要なことは借金してでもやる、
そういう商売をしなくてはならないと思うのです。

個人主義と利己主義

今日、個人主義と利己主義が
混同されているきらいがあります。
本来の個人主義というのは
個人は非常に尊いものであるという
考え方だと思います。
が、一人の個人が尊いということは、
同時に他の個人も尊いということになります。
ですから個人主義はいわば
他人主義にも通じるわけです。

それに対して利己主義というものは、
自分の利益をまず主として考え、
他人の利益をあまり重んじない姿です。

今日ともすれば、個人主義が誤り伝えられて、
利己主義に変貌してしまっている姿がありますが、
この画然とした違いをお互いに常日ごろから
知っておく必要があると思うのです。

不健康また結構

私は不健康が、
必ずその人を不幸にするとは思いません。
世の中には不健康で幸福になる場合もありますし、
また逆に健康なためにかえっていきすぎて、
不幸になる場合もあるのです。
肝心なことは「不健康また結構なり」という気分になることです。
不健康は不幸なことだ、
悲しいことだと考えて心を乱してはいけないと思うのです。

小さい頃から病弱だった私がそういう心境になれたのは、
今日考えると、
やはり前途に強い希望を持っていたためだと思います。
不健康のために希望を失うということでは、
失敗の上に失敗を重ね、
不幸の上にまた不幸を重ねることになってしまうのではないでしょうか。

師は無数に存在する

手近に親切な指導者、
先輩がいて、自分を導いてくれる、
そういう人が会社にいる人は幸せだと思います。
しかし見方によれば、
指導者のいないところにこそ、
みずからの発展というものが考えられる、
ということも言えるのではないかと思います。

蓄音機や白熱電灯などを
発明開発したあの偉大なエジソンには
指導者がいなかったそうです。
それでみずからあらゆる事物に関心を持ち、
そこに指導者を見出しました。
汽車にのれば、
石炭を焚く音や車輪の音に
指導者を見出したわけです。
みずからを開拓する気持になれば、
行く道は無限に開かれている、
師は無数に存在していると思うのです。

不景気に強い経営

好況時には少々の不勉強であっても、
サービスが不十分であっても、
まあどこでも注文してくれます。
だから経営の良否というのはそう吟味されなくてすみます。

ところが不景気になってくると、
買う方は、十分に吟味して買う余裕がでてきます。
そこで、商品が吟味され、
経営が吟味され、経営者が吟味されて、
そして事が決せられることになるわけです。
ですから、非常にいい経営の下に、
いい人が育っている会社や店は、
好景気にはもちろん結構ですが、
不景気にはさらに伸びるということになる。
そのことを事業にたずさわる者としては、
日ごろ常に心にとめておかなければならないと思います。

徳性を養う

人間が人間を動かすことは、
なかなか容易ではない。
力で、あるいは理論で動かすことも、
できないことではない。
しかしそれでは何をやっても
大きな成功は収められまい。
やはり何といっても大事なのは、
徳をもっていわゆる心服させるということだと思う。
指導者に人から慕われるような徳があってはじめて、
指導者の持つ権力その他もろもろの力も生きてくる。

だから、指導者はつとめてみずからの
徳性を高めなくてはならない。
力を行使しつつも、
反対する者、敵対する者をみずからに
同化せしめるような徳性を養うため、
常に相手の心情をくみとり、
自分の心をみがき高めることを
怠ってはならないと思う。

自然を生かす

自然はそれ自体のために
存在しているという見方がある。
しかし、もっと大きな観点に立って考えてみると、
自然は人間の共同生活に役立つために
存在しているのだと考えることもできるのではなかろうか。
そう考えてみれば、
自然を人間の共同生活の上に正しく活用していくことは、
人間にとって当然なすべきことだとも言える。

むろん、単に意欲をたくましくして
自然を破壊することはあってはならない。
自然を十破壊して、
そこから八の価値しか生み出さないと
いうのではいけないが、
十二の価値を生むならば、
むしろ積極的に自然を活用していったら
いいと思うのである。

やさしい心

あの人はどことなく豊かな、
感じのいい人であるという場合、
それはその人の心が、
その人の動作ににじみでているからだと思います。
これは非常に大事なことだと思います。

ことに私は、女性の尊さというものは、
やはり親切な心の表われているところにこそ、
ほんとうの尊さというものがあるのではないか、
という感じがします。ただ強いばかりではいけません。
賢いばかりでもいけません。
賢い、強いということも、もちろん大切ですが、
それ以上に大事なことは、心のやさしさなのです。
これはすべてのものをとかすとでもいうほどの
力があるのではないでしょうか。
その力を失ってはならないと思うのです。

サラリーマンは独立経営者

サラリーマンの中には、
自分は所詮雇われて働いているのだから、
自分の仕事に打ち込み、
生き甲斐を感ずるというまでには
なかなかなれないという人があるかもしれない。
そういう場合、私は次のように考えたらどうかと思う。

それは、一つの会社の社員であっても、
自分でその職業を選んだからには、
“自分は社員稼業という一つの独立経営者である”
という信念を持って仕事をするということである。
言いかえれば、独立経営者が十人あるいは百人、
千人と集まって、一つの会社をつくり事業をしているのだ、
と考えるのである。
そうすることによって仕事に張り合いも出てき、
面白味も加わってくるのではないだろうか。

お得意を広げるには

自分の店のお得意さんが、
他の人に「自分はいつもあの店で
買うのだが非常に親切だ。
サービスも行き届いているので
感心している」と話されたとしたら、
その人も「君がそう言うのなら
間違いないだろう。
私もその店に行ってみよう」
ということになりましょう。
その結果、お店としては、
みずから求めずして、
お得意さんを一人増やす道が
開けるということになるわけです。

そうしたことを考えてみますと、
日ごろ商売をしていく上で、
お得意さんを増やす努力を
重ねることはもちろん大切ですが、
現在のお得意さんを大事に守っていくことも、
それに劣らず大切なことでは
ないかと思うのです。

経営のコツをつかむ

多くの会社の中には、
非常にうまくいっているところもあれば、
反対に行き詰まるようなところもある。
うまくいっているところは従業員がみな優秀で、
行き詰まるところは
その反対かといえば決してそうではない。
結局、そこに経営があるかないか、
言いかえれば
経営者が経営のコツを
つかんでいるかどうかによって、
そうした違いが生じてくるのだろう。
その証拠に、
経営者一人が代わることで、
倒産寸前の会社が隆々と
発展した例はいくらでもある。

経営のない会社は、
いわば頭のない人間のようなものである。
経営者が経営のコツをつかんでいる会社は
力強く繁栄発展していくと思うのである。

苦難もまたよし

わが国では、毎年、
台風や集中豪雨で大きな水害を受けるところが少なくない。
しかし、これまでの例からみると、
大雨が降って川があふれ、
街が流れてもうダメかといえば、
必ずしもそうではない。
数年もたてば被害を受けなかった町よりも、
かえってきれいになり、
繁栄していることがしばしばある。

もちろん、災難や苦難はないに越したことはないが、
思わぬときに思わぬことが起こってくる。
だから苦難がくればそれもよし、
順調ならばさらによし、
という心づもりを常に持ち、
安易に流れず凡に堕さず、
人一倍の知恵をしぼり、
人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切だと思う。

辛抱が感謝になる

われわれが一生懸命に仕事をしても、
世間がそれを認めてくれなかったら、
非常に悲しい。
そんなとき、その悲しさが不平となり出てくるのも、
一面ムリのないことだと思う。
しかし“認めてくれないのは世間の人が悪い”という解釈もできるが、
“まあちょっと辛抱しよう。
今は認めてくれなくても、いつかは認めてくれるだろう”と、
じっと堪え忍び、いい姿を続けていくというのも一つの方法である。
そして認めてもらったら、これは非常に嬉しい。
その嬉しさが感謝になる。
“より多くわれわれを認めてくれた社会に対して
働かなくてはいけない”という感謝の心になってくる。
そういう心がなければいけないと思う。

日ごろの訓練

お互いが仲良く生活し、
また仕事を円滑に進めてゆくためには、
人の応対一つにしても、
充分に注意しなければならない。
そして単に礼儀が正しいとか、
言葉づかいに気をつけるということだけでなく、
いわば心のこもった応対ぶりを見せることが大切ではないかと思う。
もちろんこれは口で言うほど簡単なものではない。
日ごろからそういう訓練がなされていなければ、
たとえ頭でわかっていても、
実際に容易にできることではない。

いつの場合にも自然に行動に表われてくるというためには、
やはり事あるたびに躾け、
習慣づけておかなければなかなか養われるものではないと思うのである。

会社の実力を知る

私は今までに銀行にお金を借りに行って、
断わられたことはありません。
これは決して誇張でも自慢でもありませんが、
計画を立て「これだけお金が要りますから貸してください」と申し出て、
「これは松下さんいけません」と言われたことがないのです。

それはやはり、
自分の会社の力というか、
そういうものを正しく認識して、
その範囲の中で銀行にお願いしていたからでしょう。
ですから銀行の方もこれなら大丈夫だと信用して応じてくれたのだと思います。

大事なことはみずからの会社の実力を正当に認識し、
それに応じて事をなしていくことだと思うのです。

力を合わせて

不況の風が吹き、
不景気の波が押し寄せるという情況に世間があるときには、
それぞれの会社も何らかの形で、
その影響を受けないわけにはいきません。

ただそんなときに一番大切なことは、
全員の冷静な判断と力強い協力だと思います。
船長が沈着に針路を誤たず、
船員が冷静に協力を惜しまなければ、
その船はどんな嵐にあっても着々と進んでいくでしょう。
それを、それぞれが慌てて勝手な判断をし、
勝手な振舞をしたならば、
それがたとえ善意から出たものであっても、
船の前進は望めません。

不況、困難なときこそ、
“和親一致の精神”が一番に求められるのです。

職責の自覚

お互いに欠点というものはたくさんあり、
何もかも満点というわけにはいかない。
だから、自分の足りないところは他の人に補ってもらわなければならないが、
そのためには自分自身が自分の職責を強く自覚し、
その職責に対して懸命に打ち込むという姿勢が大切である。

仕事に熱心であれば、
おのずから職責の自覚が高まるし、
職責の自覚があれば、
人はまた常に熱心である。
そうした自覚、
そうした熱意は多くの人の感応を呼び、
協力も得られやすくなる。

そういうことから、みずからの職責を自覚し、
全身全霊を打ち込むという心がけだけは、
お互いにおろそかにしたくないと思うのである。

矢面に立つ精神

人間が大事に際して、
その難局の「矢面に立つ」ということは、
人生としてはおそろしいことであり、
大変に勇気のいることである。
スリルがあるとか、
あるいはこれはおもしろいな、
という人も、
今日の青年の中にはいるかもしれないが、
ほんとうに腹を割ったところ、
あまり愉快ではないと思う。
しかし、こういう場合に敢然として、
その矢面に立つことも男子の本懐と
喜んで事に当たることも大切である。

そしてそういう人こそ、
大事において、うろたえず、
ものを決断することのできる人であり、
人多くして人なき社会において、
ほんとうの人物として立っていくことのできる人
であるという思いがする。

なすべきことをなす

治にいて乱を忘れずということがある。
太平のときでも、
乱に備えて物心ともの準備を
怠ってはならないということで、
指導者としてきわめて大切な心がまえである。

とはいえ、人間というものは、
とかく周囲の情勢に流されやすい。
治にあれば治におぼれ、
乱に会えば乱に巻き込まれて
自分を見失ってしまいがちである。
そういうことなしに、
常に信念を持って主体的に生きるためには、
やはり心静かに、われ何をなすべきかを考え、
そのなすべきことを
ひたすらなしていくことが大切である。
指導者の要諦とは、見方によっては、
この“なすべきことをなす”ということに
尽きるとも言えよう。

我執

一人ひとりの人が、
それぞれに自分の考え、
自分の主張を持つということは、
民主主義のもとではきわめて大事なことである。
が、同時に相手の言い分もよく聞いて、
是を是とし、非を非としながら、
話し合いのうちに他と調和して事を進めていくということも、
民主主義を成り立たせる不可欠の要件であると思う。
もしもこの調和の精神が失われ、
それぞれの人が自分の主張のみにとらわれたら、
そこには個人的我執だけが残って争いが起こり、
平和を乱すことになる。

今日のわが国の現状、
世界の情勢をみるとき、今少し、
話し合いと調和の精神が欲しいと思うのだが、
いかがなものであろう。

強い要望があってこそ

あらゆる製品について、
それをお買い求めくださるお客さまの立場に立ち、
お客さまの番頭になる気持で、
性能、品質をためし、再吟味してみる。
これは工場側においてそうであると同時に、
これを販売する営業部門においても、
同様の気持で厳格に調査して、
もし一点でも不満足なところがあれば、
工場に返品して
再検討を求めるということでなければならない。

こうして、販売に当たる者も、
生産にたずさわる者も、
製品の良化を強く要望し、
すべて良品にしなければならないという
要望が強まれば強まるほど、
工場における良品生産も促進されることになり、
さらに信念に満ちた製品が
提供されることになるのである。

国民を叱る

私は総理大臣というものは、
新しく就任したならまず国民を
叱らなければならないと思います。
今は国民を叱る人が誰もいません。
国民に対してご機嫌をとることはしても、
国民を叱ることはありません。
だから国民は甘え、
他を頼るようになる。
それが経済の上にも、
政治の上にも行き詰まりが出てきた
一つの大きな原因だと思います。
かつて、ケネディ大統領が言ったように、
日本の総理大臣も「私は総理大臣になりましたが、
みなさんは私に求めてはいけません。
国に対して求めるよりも、
国のために何をなすべきかをお考えいただきたい。
そうしないと日本はよくなりません」こういうことを
言うべきだと思うのです。

カンを養う

カンというと、
一見非科学的なもののように思われる。
しかしカンが働くことはきわめて大事だと思う。
指導者は直感的に価値判断のできるカンを養わなくてはいけない。

それでは、そうしたカンはどうしたら持つことができるのか。
これはやはり経験を重ね、
修練をつむ過程で養われていくものだと思う。
昔の剣術の名人は相手の動きをカンで察知し、
切っ先三寸で身をかわしたというが、
それは、それこそ血のにじむような修行を続けた結果であろう。
そのように指導者としても、
経験をつむ中で厳しい自己鍛錬によって、
真実を直感的に見抜く正しいカンというものを養っていかなくてはならない。

心を通わす

一人ひとりの努力が、
部下の人にもまた上長の人にも知られるということは、
何にもまして心嬉しいことだと思います。
一つの成果をお互いに味わって、
ともに喜び合うことができるということは、
私は尊い姿だと思うのです。

一つの会社の中でも、
北海道にいる人の苦労が九州にいる人に伝わる。
九州にいる人の苦労が北海道の人に伝わり、
打てば響くような形において、
全員が結ばれていくというように、
お互いに心と心を通わしているような
状態になっていなければならない。
そうなれば願い通りの好ましい成果が上がり、
社会のためにも大衆のためにもなる
働きができるであろうと思うのです。

自由と秩序と繁栄と

自由という姿は、
人間の本性に適った好もしい姿で、
自由の程度が高ければ高いほど、
生活の向上が生み出されると言えましょう。
しかし、自由の反面には、必ず秩序がなければならない。
秩序のない自由は、単なる放恣にすぎず、
社会生活の真の向上は望めないでしょう。 民主主義のもとにあっては、
この自由と秩序が必ず求められ、
しかも両者が日を追って高まっていくところに、
進歩発展というものがあるのだと思います。
そして、この自由と秩序と一見相反するような姿は、
実は各人の自主性において統一されるもので、
自主的な態度こそが、自由を放恣から守り、
無秩序を秩序にかえる根本的な力になるのだと思います。

人材を引きぬけば……

職場で、この人はなくてはならない非常に重要な人であり、
余人にはかえがたいと思っていた人が、
ある事情でその仕事を離れました。
そこで当然、戦力のダウンが生ずるであろうと考えていたら、
不思議なことにその部なり課の成績が上がったということがあります。

これは、あとを受け継いだ人が大いに力を伸ばし、
かえってよい結果を生んでいるということに他なりません。
ですから私は、
すぐれた人材を他の部門に起用する必要があるというような場合、
躊躇せずこれをやるべきだと思うのです。
あえてそれを行なうことが往々にして、
人材の育成に結びつく場合が少なくないということを体験してきたのです。

街の品位を高める

自分の店舗は、
自分の商売のためのものであると同時に、
街の一部をなすものです。
これは、その店舗のあり方が、
街の美醜にも大きな影響を
与えるということに他なりません。
一つの街に好ましい店舗ばかり並んでいれば、
その街は生き生きと活気に
満ちたきれいな街になります。
街全体に好ましい環境が生まれます。
だから、そうした街を美化するというか、
街の品位を高めるという一段高い見地からも、
自分の店舗をきれいにしていくことが
大事だと思います。
それは「社会の役に立つ」という
商売の真の使命に基づく
一つの尊い義務とも言えましょう。
またそれは同時に商売の繁栄にも
結びつくものだと思うのです。

道徳は実利に結びつく

社会全体の道徳意識が高まれば、
まずお互いの精神生活が豊かになり、
少なくとも人に迷惑をかけないようになります。
それがさらに進んで
互いの立場を
尊重し合うようになれば、
人間関係もよくなり、
日常活動が非常にスムーズに
いくようになるでしょう。
また自分の仕事に対しても
誠心誠意これに当たるという
態度が養われれば、
仕事も能率的になり、
自然により多くのものが
生み出されるようになる。
つまり社会生活に物心両面の
実利実益が生まれてくると
言えるのではないでしょうか。
そう考えるならば、
私たちが道徳に従って
すべての活動を行なうということは、
社会人としての
大切な義務だということにもなると思います。

平和の価値を見直す

最近、平和というものが、
何かいわば空気や水のように、
ごく当然に存在するものといった感じが
強くなってきたのではないだろうか。
平和の貴重さ、
ありがたさがだんだん忘れられつつあるように感じられる。

これは危険なことだと思う。
平和は天然現象ではない。
人為というか、
人間の自覚と努力によってはじめて実現され、
維持されるのである。

だから、この際お互いに
もう一度平和の価値というものを見直してみたい。
そしてこの価値を知った上で、
国民として何をなすべきかを考え合いたい。
さもないと、せっかく続いたこの貴重な平和を
遠からずして失うことにもなってしまうのではないだろうか。

電話で仕事をする

世間には、
それこそ工場のスミズミまで
自分でまわって陣頭指揮をしなければ
気のすまない経営者も少なくありません。
しかし工場まで出向くとなれば時間がかかります。
また、せっかく来たのだから、
立話ですますわけにもいかないということで、
自分の時間も工場の責任者の時間も
必要以上に費やすことにもなりがちです。
その点、電話を活用すれば、
だいたい10分もあれば事が足りるわけで、
往復の時間もいらないし、
責任者の人の時間もとらずにすみます。

もちろん、自分の目で直接見ることによって、
より大きな成果を得られる場合もあるでしょうが、
電話で十分事足りるということも
案外多いのではないでしょうか。

投資をしているか

書物によると、
太閤秀吉という人は
馬の世話をする係になったとき、
主人である織田信長が乗る馬を
立派にするために<
自分のわずかな給料をさいて、
にんじんを買って食べさせてやったということです。
これは一つの誠意ある投資だと思うのです。

そこで、みなさんは投資をしているかということです。
そのように、いったんもらった給料を
会社へまた献金する必要はありませんが、
しかし自分の知恵で投資するか、
あるいは時間で投資するか、
なんらかの形で投資するという
面が自分の成長のためにも必要だと私は思うのです。
またそれくらいのことを考えてこそ、
一人前の社員と言えるのではないでしょうか。

笑顔の景品を

最近は、競争がなかなか厳しいこともあって、
個々のお店なり商店街が、
それぞれいろいろと工夫を凝らし、
販売を進めています。
いわゆる景品つき販売というものもその一つで、
少しでも多くのお客さんの関心をひくものをということで、
いろいろ知恵をしぼっています。

しかし、お客さんにおつけする景品のうちで、
何にもまして重要なものは何かということになったら、
私はそれは親切な“笑顔”ではないかと思います。
“自分のところは親切な笑顔のサービスに徹しよう”というように、
いわば“徳をもって報いる”方策で臨んでこそ、
お客さんに心から喜んでいただけるのではないでしょうか。

小便が赤くなるまで

「商売は非常にむずかしく厳しい。
いわば真剣勝負だ。
商売のことをあれこれ思いめぐらして
眠れない夜を幾晩も明かす。
それほど心労を重ねなければならない。
心労のあまりとうとう小便に
血が混じって赤くなる。
そこまで苦しんで
はじめてどうすべきかという道が開けてくる。
だから一人前の商人になるまでには
二度や三度は小便が赤くなる経験をするものだ」

これは私が小僧時代に
店のご主人に聞かされた話ですが、
今にして思えばこれは決して商人だけに
あてはまることではないと思います。
何をするにしても、
これだけの苦しみを経ずして
成功しようとするのは、
やはり虫がよすぎるのではないでしょうか。

欲望は生命力の発現

“欲の深い人”というと、
ふつうはよくない人の代名詞として使われているようだ。
いわゆる欲に目がくらんで人を殺したり
金を盗んだりする事件が
あまりにも多いためであろう。

しかし、人間の欲望というものは、
決して悪の根源ではなく、
人間の生命力の現われであると思う。
たとえて言えば
船を動かす蒸気力のようなものであろう。
だからこれを悪として
その絶滅をはかろうとすると、
船を止めてしまうのと同じく、
人間の生命をも
断ってしまわねばならぬことになる。
つまり欲望それ自体は善でも悪でもなく、
生そのものであり、力だといってよい。
だからその欲望をいかに
善に用いるかということこそ大事だと思う。

相談調が大事

たとえば、ある一つの仕事をしてもらう場合、
単に命令すればそれで事がはこぶ、
と考えてはいけない。
指示し、命令するだけだと、
とかく“命、これに従う”ということになって、
ほんとうにいい知恵、
力強い姿は生まれてきにくい。

だから、「あんたの意見はどうか、
ぼくはこう思うんだがどうか」というように、
できるだけ相談的に部下に
もちかけることが大事だと思う。
そうして部下の考え方なり
提案をとり入れつつ
仕事を進めていくようにするわけである。
そうすると自分の提案が加わっているから、
その人は仕事をわが事として
熱心に取り組むようになる。
人を活かして使う一つのコツは、
そういうところにもあると思う。

素直にありがたさを認める

今日、みなさんがこの会社に
入社することができたのは、
一つにはみなさんの努力によるものでしょう。
しかし決して自分一人の力で
こうなったとうぬぼれてはなりません。
会社にしましても、
世間からごひいきをいただいているからこそ、
今日こうして成り立っているのです。

ですから、個人にしても会社にしても、
あるいは国の場合でも、
やはり謙虚にものを考え、
その物事の成り立っている
背景なり人びとの恩恵というものを、
正しく認識しなければなりません。
そして、協力してくださる相手に対しては
素直に喜びと感謝の念を表わし、
自分たちもこれに相応した働きを
していくことが大切だと思います。

利益が先か地盤が先か

先般ある関係会社へ行って、
課長以上の人に集まってもらったときに
“利益をあげることが先ですか、
それとも地盤づくりが先ですか”
という質問が出ました。
それに対して私は
“わが社は5人のときには5人の、
10人になれば10人の、
さらに1000人になれば1000人の企業に
ふさわしい利益を上げてきた。
そうしたことの連続が今日の成功になった。
もし5人だから、
10人だからまだよいだろうと
思っていたならば今日の姿はない。
だからこの会社も利益を上げつつ
地盤をつくっていく以外にないと思う”
と答えたのです。
私は世の中すべての経営というものは、
そういうところに
ポイントがあるのではないかと思うのです。

自分をほめる心境

私はいま、二十代の夏の日のことを
なつかしく思い出します。
日のあるうちいっぱい仕事をし、
晩にはタライに
湯を入れて行水をするのです。
仕事を終えたあとの
行水は非常にさわやかで、
“自分ながらきょう一日よく働いたなァ”
という満足感を味わったものです。

自分ながらきょうはよくやった、
と言って自分をほめる、
自分をいたわるという心境、
そういうところに
私は何だか生き甲斐というものを
感じていたように思うのです。

お互い毎日の仕事の中で、
自分で自分をほめてあげたいという
心境になる日を、
一日でも多く持ちたい、
そういう日をつみ重ねたいものだと思います。

政府を助ける心がまえ

政府は、国民の人気を得なければならないから、
なかなか国民に対してイヤなことは言いにくい。
だから、だれに対しても、助けましょう、
助けましょうと言いがちである。

けれども、われわれは政府に頼りすぎてはならない。
他をたのまずしてみずからの力で、
自分でできる範囲のことを着実にやっていく。
そういう気持なり態度というものが最も大切であると思う。

そして、政府に救済してもらうというよりも、
むしろわれわれ国民の方から政府を助け、
社会の進展に寄与していく。
そういう心がまえをお互いに持つことが
肝要ではないかと思うのである。

もっと厳しく

昔の武士は朝早くから
道場に出て血のにじむような
稽古にはげんだという。
そして師範や先輩たちの
木刀を身にあびながら、
何くそと立ち向ううちに
おのずと腕も上達していった。
また商人であれば、
丁稚奉公からつとめはじめ、
主人や番頭に横っ面の一つも張られながら、
おじぎの仕方から
ものの言い方まで一つ一つ教えられつつ、
商人としてのものの見方、
考え方を養っていったわけである。

もちろんそのような修業の過程には、
好ましくない面もあったであろう。
しかし、少なくともそうした厳しい修業が人を鍛え、
その真価を発揮させる上に役立ったと思う。
それは今日にも通用することであろう。

強固な精神力を

その昔、日蓮上人は、
ただ一人の聴衆の姿も
見えないという時にでも巷に立って、
わが信念を説いたと言います。
何をほざくかと馬糞を投げられ、
石を投げられ、
さんざんな悔辱を蒙っても、
彼はビクともせず、
日本の安泰のために、
民衆の幸福のために、
わが信念を傾けました。
日蓮上人のそういう態度と比べてみると、
われわれとは同じ人間でありながら、
たいへんな相違があるなという感じがします。

いま、われわれに必要なのは、
日蓮上人のあの強固な精神力です。
日蓮上人とまではいかなくとも、
せめて自分の仕事に一つの使命を感じ、
これに情熱を傾けて精進する
積極的な自主独立の精神を養いたいものです。

人間は初めから人間である

人間はその歴史において、
さまざまな知識を養い、
道具をつくり出して生活を向上させてきました。
しかし私は、
人間の本質そのものは初めから変わっていないと思います。
人間はもともと人間であって、
人間そのものとして向上してきたと思うのです。
私は人間が猿から進歩したというような考え方に対しては、
疑問を持っています。
猿はやはり最初から猿であり、
虎は最初から虎であり、
人間は最初から人間であると思うのです。

人間は初めから人間としての素質、
性質を与えられ、
みずからの努力によって知識を進め、
道具をこしらえて、
みずからの生活を高めてきた、
それが人間の歴史だと思うのです。

身をもって範を示す

指導者というものは、
いろいろなかたちでみずから信じるところ、
思うところを人びとにたえず訴えねばならない。
と、同時に大切なのは、
そのことを自分自身が身をもって実践し、
範を示すようにつとめていくことであろう。
“百日の説法屁一つ”ということわざもあるように、
どんなにいいことを説いても、
その成すところがそれに反していたのでは、
十分な説得力は持ち得ない。

もちろん、力及ばずして100%実行はできないということもあろう。
というよりそれが人間としての常かもしれない。
しかし、身をもって範を示すという気概のない指導者には、
人びとは決して心からはしたがわないものである。

自分自身への説得

説得というものは、
他人に対するものばかりとは限らない。
自分自身に対して、
説得することが必要な場合もある。
自分の心を励まし、
勇気をふるい起こさねばならない場合もあろうし、
また自分の心を押さえて、
辛抱しなければならない場合もあろう。
そうした際には、
自分自身への説得が必要になってくるわけである。
私がこれまで自分自身への説得をいろいろしてきた中で、
いまでも大切ではないかと思うことの一つは、
自分が運が強いと自分に言い聞かせることである。
ほんとうは強いか弱いかわからない。
しかし、自分自身を説得して、
強いと信じさせるのである。
そういうことが、
私は非常に大事ではないかと思う。

声をかけるサービス

商売をしている限り、
いつの時代でも
サービスは大事ですが、
中でも特に故障や不満のないときの
サービスということが大事です。
だんだん暑くなってきて、
扇風機がそろそろ要るようになる。
そんなとき、
ちょっと立ち寄って
“去年の扇風機の調子はどうですか”と声をかける。
また“お納めした品物の具合はどうでしょう”と聞いてみる。
いわば“声のサービス”です。
これは全くの奉仕で、
それですぐどうこうというものではないでしょうが、
ご需要家にしてみたらどんなに嬉しく、
また頼りに思われることでしょう。
そういうところに、
商売をする者の真の喜びを感じ、
尊さというものを
自覚しなければならないと思うのです。

力の限度にあった仕事を

2、 3人の人を使っての
個人企業の経営者としては
立派に成績を上げたけれども、
10人、20人と人が増えては
もうやっていけないという人もあろう。
このことは、
ひとり経営者についてだけでなく、
部とか課の責任者、
さらには一人ひとりの社員が
仕事と取り組む上での
心構えといった点で
大事な教訓を含んでいると思う。
それは一言でいえば、
お互いが自分の能力を知り、
その上に立って自己の適性というか、
力の限度にあった
仕事をしていかねばならないということである。
自分の能力を常に検討し、
適性にあった仕事をしていくということになってこそ、
自分自身、
ひいては会社や世の中にも
貢献することができると思うのである。

降格は公の心で

部長が適任でない場合どうするか、
ということは非常に大事な問題である。
日本の会社では、
とりかえるということはむずかしいことである。
だが、それはやらなくてはならない。
やりにくいことをやらなければ物事は成り立たない。
断乎としてやる勇気を持たなくてはいけない。

そういうときに、
一つ勇気を出す方法がある。
それは会社は個人のものではない、
公のものである、
だから個人の情において忍びなくても、
公のためには変えなければならない、と考える。
実際はそう理屈通りにはいかないが、
そのような解釈を強く持つか持たないかによって、
それが適切にできるかできないかという
差がでてくるのではないだろうか。

人間の幸せのための政治

私たちが決して忘れてならない大事なことは、
政治は結局、
お互い人間の幸せを高めるためにある、
ということです。
過去においては多くの人びとが
政治によって苦しめられ、
お互いの血を血で洗うということもありました。

しかし、そうした好ましくない姿は、
政治の本来の姿ではない。
政治は本来、
お互い人間のそれぞれの活動を
スムーズに進めることができるようなものです。
それらの調整調和をはかり、
共同生活の向上をはかって、
一人ひとりの幸せを生み高めることを
その使命としているのです。
この“政治は本来、人間の幸せのためにある”
ということを私たちは
まず正しく認識しあう必要があると思います。

経営にも素直な心が

成功する経営者と
失敗する経営者の間にある大きな違いは、
私心にとらわれず、
公の心でどの程度ものを見ることができるか、
ということにあると思います。
私心つまり私的欲望によって
経営を行なう経営者は必ず失敗します。
私的欲望に打ち勝つ経営者であってこそ、
事業に隆隆たる繁栄、
発展をもたらすことができると思うのです。

私の欲望にとらわれず、
公の欲望を優先させるということは、
言葉をかえれば、
素直な心になるということです。
そのように私心にとらわれず、
素直な心で物事を見ることが
できるようにみずからを常に顧み、
戒めることが大切だと思います。

三回ダメを押す

新しい仕事をするときは
よほど注意をしなければいけない。
その仕事を進めていくとき、
上長の人に承諾を得ても、
実行するに当たっては、
三回ダメを押したい。
一度だけ「よろしいか」、
「ああよかろう」と承認されても、
それで事足れりとしてはいけない。
そして後でうまくいかなかったときに、
「あのときに上長のあなたが
承諾したからやったのだ」と
いうようなことを言うのは、
言う方が間違っていると考えるべきだと思う。

一度はんを押してもらったからもう
それで事足れりというような考えでは、
真に過ちのない、
生きた仕事はできるものではないと思うのである。

利害を超える

ある日、私のところに
「自分の会社で造る製品の販売を
引き受けてもらえないか」という話を
持ってこられた人がいた。
私はいろいろとその人の話を聞いてみて、
この人はえらい人だなと思った。
普通であれば、
自分にできるだけ有利になるよう交渉する。
それがいわば当たり前である。
ところが、その人は
「すべてをまかせる」という、
自分の利害を超越した態度をとられた。
私はその態度に感激し心を打たれた。

われわれはともすれば
自分の利害を中心に物を考える。
これは当然の姿かもしれない。
しかし、それだけにそれを
超越したような姿に対しては、
心を動かされる。
これもまた人間としての一つの姿ではないか。

末座の人の声を聞く

みなさんが長という立場に立って
会議をする場合、
一番若輩と言われるような人からも
意見が出るということが
非常に大切だと思います。
そしてそのためには意見が出るような
空気というか雰囲気をつくっているか
どうかがまず問題になります。
だから末座に坐っている人でも、
遠慮なく発言できるような
空気をつくることが、
長たるものの心得だと思うのです。

そして、末座に坐っている人から
意見が出たなら、
葬ってしまうようなことをせず、
喜んでそれを聞く謙虚さ、
雅量というものを持つことが
非常に大事だと思います。
それを持っていないと、
そのグループなり会社は
うまくいかなくなってしまうでしょう。

フグの毒でも

今日のわが国では、
せっかくいいものが発明されても、
それに万に一つでも欠陥があれば、
もうそれでそのものはすべてだめ、
としてしまうような
傾向が強いように思われます。
それは言ってみれば、
フグの毒を発見して
フグを食べるのを
一切やめてしまうようなものだと思います。

科学技術が非常に進歩した
今日に生きる私たちは、
フグの安全な調理に成功した
昔の人に笑われないよう、
物事を前向きに考え、
せっかくの科学技術の成果を
十分に活用できるだけの知恵を、
さらに養い高めていくことが
必要ではないかと思います。
そこに人間としての
一つの大きな使命が
あるのではないかと思うのです。

世間は神のごときもの

事業が大きくなってくると、
仕事もだんだんと複雑になって、
そこにいろいろな問題が起こってくる。

私は、この問題をどう考え、
どう解決すべきかと日々の必要に迫られて、
その解決策の根本を求めていくうちに、
“世間は神のごときもの、
自分のしたことが当を得ていると、
世間は必ずこれを
受け入れてくれるにちがいない”
という考えに行きついた。

正しい仕事をしていれば悩みは起こらない。
悩みがあれば自分のやり方を変えればよい。
世間の見方は正しい、
だからこの正しい世間とともに、
懸命に仕事をしていこう……
こう考えているのである。

“仕事の上手”に

日本古来の武道の一つに“弓道”があるが、
この道の達人の域に達すると、
たとえ眼かくしをして矢を放っても、
ピシャリと的を射るという。
しかし、こういった名人の域に達するには
一朝一夕ではとても覚つかない。
一矢射るたびに必ず検討を加え、
工夫を重ねていって、
一歩一歩、上達していくのである。

私は“仕事”にしても、
これと同じことが言えると思う。
日々、みずからの仕事の成果を
検討することに努めれば、
必ずや“仕事の名人”とまではいかなくとも
“仕事の上手”にはなれると思う。
100本の矢を射れば、
少なくとも80本は的に当たるという
“上手”の域にまで、
おのおのの仕事を高めたい。

会社の病気の早期発見

癌は早期発見すれば
治すことができるということですが、
見てもらったときには
手遅れであるという場合も少なくないようです。
そういうことは、
会社の経営においても言えるように思います。
“会社の状態がちょっといかんなあ”と気がついたときには、
もう末期の状態で手のつけようがないということが
往々にしてあるわけです。

ですから、どんなに順調に発展している会社、
商店であっても、
経営には常に自己診断をすることを
怠ってはならないと思います。
そして“この点に欠陥があるな”ということを
早く知ることができれば、
大きな問題にはならず、
手当ても可能だと思うのです。

公事のために人を使う

たくさんの人が働いている企業の中には、
いろいろさまざまな職種がある。
けれどもそのどれをとっても、
一つとして私の仕事はない。
みな、その企業が事業を通じて
社会に貢献していくために必要なものである。
その必要な仕事をやってもらうために人を雇い、
人を使っているわけである。
形の上では使う立場、
使われる立場はあるけれども、
あくまで私のためではなく、
公のために人を使うのである。

だから、単に私的な感情や利害で人を使ったり、
処遇することは許されない。
常に社会の公器としての
企業の使命というものに照らして、
何が正しいかを考えつつ、
人を使うように心がけなくてはならない。

自他相愛の精神

個人と個人との争い、
国と国との争いは、
相手を傷つけ、さらには社会全体、
世界全体を混乱させる。
そういう争いの大きな原因は、
自他相愛の精神というか、
自分を愛するように他人を愛し、
自国を愛するように
他国を愛する精神の
欠如によるものであろう。

そういう精神の大切さは
昔からいろいろな教えによって
説かれていながら、
いまだに争い事が絶えないのは、
人びとが、このことの大切さを真に悟っておらず、
その精神に徹していないからだと思う。

争いはみずからをも傷つけると
いうことを身をもって知り、
人類に平和をもたらすために
力を合わせていくことが肝要である。

仕事は無限にある

この頃は不景気で仕事がないと言うけれども、
今後百年の日本というものを考えてみると、
その間に日本の建物という建物は
ほとんどつくり変えなければならなくなるだろう。
橋や道路も同じである。
そういうことを考えてみただけでも、
仕事はいわば無限、
困るほどにあるのである。

ところがそういう見方をせずに、
みずから仕事がないようにし、
不景気にしているのが、
いまの日本の実情ではないだろうか。

これはものの見方を変えないといけない、
発想の転換をしなければならない、
ということである。
そうしてこそはじめて、
わが国に無限の仕事があることがわかるのである。

ありがたいお得意さん

お得意さんの中には、
つくったものを持っていくと
「これはなかなか苦心してつくってある。
よくできている」とこちらが嬉しくなるようなことを
言って買ってくださる非常にいいお得意さんもあれば、
逆に「こんなものはダメだ。
値も高いし、できもよくない。
よそのはもっといい」と持って帰れと
言わんばかりのお得意さんもあります。

そのときにどちらがありがたいかということです。
ほめて買ってくだされば、
それが一番いいけれど、
そんないいお得意さんばかりでもかえって具合が悪い。
世の中を甘く見、
勉強しないようになるからです。
厳しいお得意さんも、
またありがたいお得意さんと言えるでしょう。

資本の暴力

事業を行なう限り、
利潤の確保に努めることは当然である。
が、それはあくまで適正な競争によるべきであって、
手段を選ばぬ過当競争によるものであってはいけない。

ところが現実には、
自社製品の市場占有率を高めることのみ考え、
損を覚悟で売るという姿が見受けられることがある。
これは資本による暴力にほかならないと思う。
とくに大企業が、
その資本に頼り、
暴力的行為に出れば、
その業界は大いに混乱する。
そしてそればかりか業界の信用をも
落とすことになりかねない。
今日、いわゆる暴力が禁止されているごとく、
資本による横暴も一つの罪悪とみて、
厳しく自戒すべきだと思う。

世論を超える

一般に、指導者というものは
世論というか多数の意見を
大切にしなくてはいけない。
世論に耳を傾けず、
自分一個の判断で事を進めていけば、
往々にして独断に陥り、
過ちを犯すことになってしまう。

けれども、
それはあくまで平常の場合のことである。
非常の場合にはそれだけでは
処し切れない面も出てくる。
そういう場合には、
指導者は世論を超えて、
より高い知恵を生み出さなくてはいけない。

常は世論を大切にし、世論を尊重しつつも、
非常の場合には、あえてそれに反しても、
より正しいことを行う。
それができない指導者ではいけないと思う。

みずからをつかむ

人それぞれに顔、
かたちが違うように、
人間は誰しも、一人ひとり違った素質、
才能を持っている。ただそれらは、
顔を鏡にうつすごとくには表面に出にくい。

しかし、そういう自分の素質とか
才能というものを自分でハッキリとつかみ、
そしてそれを日々の活動に、
ひいては人生に生かすことができたら、
どれだけ人間としての喜びに
満ちた生活が営まれ、
人生の妙味というものを
味わうことができるだろうか。

一人ひとりが他と違ったものを持ち、
そして日々新たに発展していく。
そこには苦しみもあろうが、
何物にもかえがたい喜びもあるはずである。

礼儀作法は潤滑油

私は礼儀作法というものは、
決して堅苦しいものでも、
単なる形式でもないと思います。
それはいわば、
社会生活における“潤滑油”のようなものと
言えるのではないでしょうか。

職場では、性格や年齢、
ものの考え方など、
いろいろな面で異なる人びとが
相寄って仕事をしています。
そのお互いの間をなめらかに動かす
役割を果たすのが礼儀作法だと思うのです。

ですから、礼儀作法というものは、
当然、心のこもったものでなければなりませんが、
心に思っているだけでは潤滑油とはなり得ません。
やはり形に表わし、
相手に伝わりやすくし、
心と形の両面があいまった適切な礼儀、
作法であってこそ、
はじめて生きてくると思うのです。

おとなの責任

現代の青年は夢がないとか、
生きがいを見失っているとか言うけれども、
それは青年自身の問題ばかりでなく、
社会の問題、
おとなの問題とも言えるのではないだろうか。
つまり、おとなというか、
その国、
その政治が青年たちに生きがいを
持たすようにしていない。
夢を与えていない。
使命観を与えていないのである。

たとえ同じ仕事をするにしても、
そのことの意義とか価値というものを
はっきりと自覚させられ、
教えられていないから、迷ったり不平を持って、
やがては現代の社会を
のろうようにもなるわけであろう。

そこに今日の日本の根本の
問題があるのではないかと思う。

自己資金での経営

商店、会社というものは、
本当は借金をせずして
自己資金の範囲で
経営しなければならないと思います。

と言っても、
そうするにはそれだけのものを
儲けなければならないわけですから、
なかなか容易なことではありません。
ただ高く売るのではお客様は買ってくださらない。
原価を引き下げるとか、
お客様にキメこまかいサービスをするということに
成功するより仕方がありません。
それに成功するならばお客様に喜んでいただきつつ、
自分も適正に儲け、
そして経営の体質も改善されてくるでしょう。
自己資金での経営に徹するという決心があれば、
それは必ず可能だと思うのです。

欠点を知ってもらう

上に立つ人は、
自分の欠点をみずから知るとともに、
それを部下の人たちに知ってもらい、
それをカバーしてもらうようにすることが大事だと思う。
部下の人が全知全能でないごとく、
上に立つ人とても完全無欠ではない。
部下の人よりは欠点は少ないかも知れないが、
それでも何らかの欠点を持たないという人はいないだろう。

その欠点多き上司が自分の知恵、
自分の力だけで仕事をすすめていこうとすれば、
これは必ずといっていいほど失敗するだろう。

やはり、自分の欠点を部下の人に
知ってもらい補ってもらってこそ、
はじめて上司としての職責が全うできるのである。

信ずることと理解すること

繁栄、平和、幸福をより早く、
より大きく生むためには、
信ずることと理解すること-
-この二つを全うしてゆかなければなりません。
というのは信を誤らないためには、
理解を正しく働かさなければなりません。
理解を捨てると、
迷信に陥りやすく、
また理解だけで信ずる心がなければ
信念に弱気を生じてしまうからです。

では信と解を全うしてゆくにはどうすればよいか。
それにはまず素直な心になることです。
正しい理解も素直な心から生まれてきますし、
信ずることも素直な心から高まってくると思います。
心が素直であって、
信と解がともに高まれば、
あらゆる場合に適切な働きが
できるようになると思います。

社長はお茶くみ業

戦後、世間一般の風潮として、
社長の言うことだからといって、
それがスッと聞かれるというわけにはいかなくなった。
だから形の上では命令することがあっても、
実質はお願いするという気持を心の内に持たなくては、
社長の職責がつとまらなくなったわけである。

そういう心持になったなら、
社員の人が仕事をしてくれれば
「いやどうもありがとう、ほんとうにごくろうさま、
まあお茶でも一杯」ということにもなる。
そういうことから、
以前私は、社長は“お茶くみ業”だと考え、
人にも話したことがある。
もちろん実際にお茶くみをするわけではないが、
そういう心持になることが
大切ではないかということである。

責任を生きがいに

人は成長するにつれて、
だんだんその責任が重くなっていきます。
そして、成人に達すると法律的にもはっきり
少年のころとは違った責任を問われます。
また、次第に高い地位につくようになると、
それだけ責任が重くなります。

しかし、人はもともと責任を問われるところに、
人としての価値があるのだと思います。
責任を問われることが大きければ大きいほど、
それだけ価値が高いということが言えましょう。
ですから、責任を問われるところに、
生きがいもあろうというものです。
責任を背負い、
そのことに生きがいを覚えないとしたら、
年齢は20歳をどれだけ過ぎようと
一人前の人ではありません。

心から訴える

私は自分の考えた一つの案を、
会社なり上司に用いてもらうには、
やはりそれなりの方法というか、
持っていき方があるのではないかと思います。
これは商売人が物を売り込むのと一緒です。
“これ、いいから買え”と生意気に言ったのでは、
うまくいきません。その売り込み方が肝心なのです。

まあ商売であれば、
いろいろの言葉も使えましょう。
また宣伝の仕方もいろいろありましょう。
しかし要は、それを非常に誠心誠意、
訴えていくということだと思います。
提案をするにしてもこれと同じことです。
誠意を基本に喜んで用いられるような接し方を工夫する、
そういうことが非常に大事な問題だと思うのです。

是を是とし非を非とする

とかく人間というものは、
物事を数の大小や力の強弱
といったことで判断しがちである。
そしてまた、
そういうことを中心に考えた方が
いいという場合もあるだろう。
しかし、
それは日常のことというか、
いわば小事について
言えることではないだろうか。
大事を決するに当たっては、
そうした利害、損得といったものを超越し、
何が正しいかという観点に立って
判断しなくては事をあやまってしまう。
それができるということが、
指導者としての見識だと思うのである。

とかく長いものにまかれろ的な
風潮の強い昨今だけに、
指導者にはこうした是を是とし、
非を非とする見識が強く望まれる。

経営力の大切さ

商売を発展させていく上で、
経営力というものが大切であることは、
いまさら言うまでもないと思います。
そしてそういった経営力は、
その主人公といいますか、
経営する立場にある人が
みずからこれを持てば、
一番望ましいことはもちろんです。

けれども、
現実には必ずしもそうでない人もあると思います。
その場合、
その会社や商店の経営は
うまくいかないかというと
必ずしもそうではありません。

主人公みずからが経営力を持たなければ、
しかるべき番頭さんを求めたらいいわけです。
経営力の大切ささえ忘れなければ、
やり方はいくらでもあると言えましょう。

素直な心の初段

聞くところによると、
碁を習っている人は、
大体1万回くらい碁を打てば
初段になれるということです。
素直な心の場合もそれと同じようなことが
言えるのではないかと思います。
まず素直な心になりたいと
朝夕心に思い浮かべ、
そうしてたえず日常の行ないに
とらわれた態度がなかったかを反省する。
そういう姿を1年、
2年と続けて、1万回、
約30年を経たならば、
やがては素直の初段ともいうべき
段階に到達することも
できるのではないかと思うのです。

素直の初段にもなったならば、
まず一人前の素直な心と言えるでしょう。
だから大体において、
過ちなき判断や行動ができるように
なってくると思います。

健康法はなくても・・・

私は若い頃から病弱であったが、
戦中戦後の無我夢中で
働かざるを得ない時期を経て健康体になり、
いまもまだ元気でいられる。
健康法と言えるものは
何もないといっていい私にとって、
これは考えてみればまことにありがたいことだし、
ほんとうに不思議なものだと思う。

しかし、これまでの歩みを振り返ってみると、
私は、一つの仕事が成就すると、
またすぐ次の仕事をと、
たえず目標を持って努めてきた。
いま静かに思うと、
その繰り返しの中に張り合いがあり、
そこにいわば死ぬに死ねないとでもいうか、
一種の緊張感がみなぎっていた。
そこに生きる張り合いを感じ、
毎日を過ごしてきたように思うのである。

諫言を聞く

指導者が物事を進めて行くに当たって、
みなからいろいろな意見や
情報を聞くのは当然の姿である。
そしてその場合、大事なのは、
自分にとって都合のいいことよりも、
むしろ悪いことを多く聞くことである。
つまり、賞賛の言葉、
順調に進んでいる事柄に
ついての情報よりも、
“ここはこうしなくてはいけない”といった諫言なり、
悪い点を指摘する情報を
努めて聞くようにしなければならない。

ところが、そうした情報はなかなか
指導者の耳に入ってきにくいものだ。
だから、指導者はできるだけ、
そうした諫言なり、悪い情報を求め、
みながそれを伝えやすいような
雰囲気をつくることが大切なのである。

身も心も、そして財産も

人間、将来のことはわからないけれども、少なくともいま現在のあなたは、
入社した動機はどうあるにせよ、一応生涯をこの会社に託そうと決心して、
身も心も会社に打ち込んでいると思う。

そこで、さらに一歩進んで自分の財産までも打ち込めないものかどうか。
たとえば極端に言うと、全財産をはたいてあなたの会社の株にかえるような、
心がまえとしては会社と心中するくらいの気持であってほしいと思うのである。
そういう心がまえであれば、必ずや仕事の成果というものは非常に上がるであろうし、
またそういう姿は、会社からも周囲からも高く評価されると思うのである。

策を弄する

世の中には、事をなすに当たって、いろいろ策を弄する人があるようです。
「弱肉強食は世の習い」とかで、ボヤボヤしていたのでは激烈な生存競争に敗北してしまうということから、
何としても人より一歩でも先んじたいという気持が嵩じて「策を弄す」ことになるのかもしれません。
しかし、こうした小細工は自然の理に背く場合が多く、結局成功することも少ないのではないかと思います。

「策を弄する」とは、私は智恵才覚をもてあそぶことだと思います。
智恵才覚は人間に与えられた偉大な特質ですが、
これはあくまでも正しい目的のためのみに使われるべきもので、
よこしまな策謀に使ってはならないと思うのです。

冷静な態度

人間というものは誰しも、困難に直面すると恐れたり、動揺したりするものである。
指導者とても人間だから、ときに不安を感じ、思案に余るのは当然であろう。
しかし、内心で感じても、それを軽々に態度に出してはいけない。
指導者の態度に人は敏感なものである。
それはすぐ全員に伝わり、全体の士気を低下させることになってしまう。

だから、指導者たるものは日ごろから事に当たって冷静さを失わないようにみずから心を鍛えなければならない。
そして、どんな難局に直面した場合でも、
落ち着いた態度でそれに対処するよう心がけることがきわめて大切だと思うのである。

報告する

何か命じられて使いに行き、帰ったら、「あれはこうでした」と、必ず報告しているでしょうか。

何か問題が起こったという場合はもちろん、何事もなかったときでも、
何もなかったのだからそれでいい、と考えるのではなく、まず報告する。
また、それがいい結果であったら、それはそれで報告する。
そうすると、報告を受けた方も「それは結構やったな」と非常に愉快になるし、安心もします。

打てば響くというか、以心伝心というか、肝胆相照らす仲であれば、
命じた人の気持を察して必ず報告するものです。
そのちょっとした心がけから信頼感も生まれてくると思います。

歴史の見方

私は最近、お互いの歴史に対する態度の中に、
何か人間の醜さとかそういったウラの面を強調しすぎている面があるのではないか、
ということが気になっている。

今日の姿をつくっているのは歴史である。
そして今後の歴史というものは、われわれが、祖先が営々と努力を積み重ね前進してきた姿なり、
子孫に残した遺産なりをどのように受け取り、生かすかによって変わってくるのである。
そういう意味から、歴史の長所短所そのままを認識し、
いい面はどんどん伸ばしていかなくてはならない。
興味本位にこれを扱うことなく、もっと美しい面も同時に見るようにしたいと思うのである。

中小企業の強味

世間ではとかく中小企業は弱いと言います。
しかし私は、中小企業ほど人がその能力を十分発揮しつつ働きやすいところはないと思うのです。
従業員が20人とか50人ということであれば、お互いの気心や動きがよくわかって、
打てば響くすばやい活動ができやすいのです。

つまり、かりに大企業では個々の人の力を70%ぐらいしか生かすことができなくても、
中小企業は100%、やり方によっては120%も生かすことができるわけです。

そういうところに、中小企業の一つの大きな強味があるように思います。
その強みを積極的に生かしていくことが、きわめて大切ではないでしょうか。

知識はあっても……

先般、あるお店で、金庫の扉がガス溶接機で焼ききられて、
中から金を盗まれた、という事件がありました。
ガス溶接の知識を利用して扉を溶かしたわけです。
そういう泥棒がいるのです。

知識はいくら持っていても、人間の心、すなわち良心が養われなければ、
そういう悪い方面に心が働き、知識はかえって仇をなす、というような感じがします。

今日、新しい知識がなければ生活にこと欠くというくらい知識は大事なものです。
それだけに、知識にふさわしい人間、
人心というものを育てることが非常に必要なことではないかと思うのです。

事業は人なり

「事業は人なり」と言われるが、これは全くその通りである。
どんな経営でも適切な人を得てはじめて発展していくものである。
いかに立派な歴史、伝統を持つ企業でも、
その伝統を正しく受けついでいく人を得なければ、
だんだんに衰微していってしまう。
経営の組織とか手法とかももちろん大切であるが、
それを生かすのはやはり人である。
どんなに完備した組織をつくり、新しい手法を導入してみても、
それを生かす人を得なければ、成果も上がらず、
したがって企業の使命も果たしていくことができない。

企業が社会に貢献しつつ、
みずからも隆々と発展していけるかどうかは、
一にかかって人にあるとも言える。

言うべきを言う

部下を持つ人は、自分1人だけの職務を全うすればいいのではなく、
部下とともに仕事の成果全体を高めていかなくてはなりません。
そのためには、やはり部下に対して誠意をもって言うべきことを言い、
導くべきことは導いていくことが大切です。

注意すべきときに“注意したら文句を言ってうるさいから”というようなことを考えて、
言わずに放っておくというようなことではいけません。
部下がなすべきことはやはり毅然として要求し、
そしてそれを推進していくということに対しては断乎としてやらなければならない。
そういうことをしない上司には、部下はかえって頼りなさを感じるものです。

美と醜

私の宅の近くに水のきれいな池がある。
水面に周囲の樹々の姿を映し、まことに風情がある。
ところがこの池がひところ雨が降らなくて、
底の大半を露出してしまうまでになった。
映すべき何物もなく醜い底を露呈するばかりである。
美の反面には醜がある--そんな思いである。

お互い人間も、これと同じことではなかろうか。
美と醜とが相表裏しているところに、人間の真実がある。
とすれば、美の面のみにとらわれて、
その反面の醜を責めるに急なのは、
人間の真実というものを知らないものである。
暖かい寛容の心を持って接し合うことが、
お互いに明るく暮らすための、
一番大事なことではなかろうか。

上には上がある

剣術でも、習い始めて少しうまくなってくると、
みんなが自分より弱く見えて、太刀さえとれば自分が勝つように思う。
しかしその域を脱すると、自分もまあ相当修行できたかもしれないが、
しかし上には上がある、自分より上の人がたくさんいるということがわかってくるから、
自然謙虚な心持になり、その人たちを手本としてその本質を究めようとします。

経営もこれと同じで、経営者としての経験を積めば積むほど、
経営というものの幅の広さ、奥行きの深さがわかってくるものです。
常に、もうこれでいいというのではなく、
よりよき方法、よりよき道を求めるという姿勢が大切だと思います。

孤立化を防ぐ

今日の日本が世界の中で、ふたたび孤立化する傾向があるとするなら、
それはみずから招いているのである。
つまり、それは日本なり日本人が置かれている立場、
実態を知らないところからきている。

だから、われわれは、まずすべての国、すべての人びとが、
日本と仲よくしてくれているからこそ自分たちは生活できるのだ、
という自覚認識をすることが大事であろう。
その自覚からは、みんなの世話になっているという謙虚な気持がおのずと出てくる。
そうなれば、事は半ば解決するといってもよい。
そういう思いを持つなら、みずから孤立化を招くような態度は決して出てこないと思うのである。

常識を破る

私たちを取り囲んでいる常識というものは、
想像をはるかに越す根強さを持っています。
しかし私たちは、その常識を尊ぶとともに、
ときには常識から自分を解放することが必要だと思います。
そしてそのためには、やはり強い熱意が要請されます。
熱意のたぎっているところ、人は必ず新しい道を開きます。
常識では考えられないことをやってのけ、運命を切り開き、新しい発明発見をします。
常識を破るのです。

常識は大事であり、破るがために常識をはずれたことをするのは、
世の中を乱し、周囲に迷惑を及ぼすだけです。
そうではなくて、熱意の発するところには、
次つぎと新しい着想が生まれ、必然的に常識が破られていくのです。

批判はあとでよい

賢い人は、ともすれば批判が先に立って目前の仕事に没入しきれないことが多い。
このためせっかく優れた頭脳と知恵を持ちながら、
批判ばかりして、結局は簡単な仕事も満足にできないことがある。
ところが逆に、人が見ればつまらないと思われるような仕事にも「バカの一つ覚え」と言われるぐらいに全身全霊を打ち込む人がいる。
この姿は全く尊く、見ていても頭が下がる。

仕事に成功するかしないかは第2のこと、要は仕事に没入することである。
批判はあとでよい、とにかく一心不乱になることだ。
こうした努力は必ず実を結ぶと思う。
そこからものが生まれずして、いったい、どこから生まれよう。

サービスできる範囲で商売を

どんないい商品があっても、サービスがそれに伴わなかったら、
これはお客様にほんとうに満足していただけないと思います。
むしろ、サービスに欠けるところがあったならば、お客様の不満を招き、
かえって商品自体の信用を落とすことにもなりかねません。
だからサービスとは、ある意味では製造なり販売に優先するほどのものだとも考えられます。

サービスというものは、どんな商売にもつきものであり、したがっていかなる場合でも、
完全なサービスのできる範囲で商売をしていくことが大切だと言えます。
そういう経営の姿勢からこそ、堅実な商売の発展がもたらされてくると思うのです。

寛厳よろしきを得る

指導者はいわゆる寛厳よろしきを得ることができるよう心がけることが大事だと思う。

やさしさばかりでは、人びとは安易になり、成長しない。
厳しさ一方でも、畏縮してしまい、
のびのびと自主性を持ってやるという姿が生まれてこない。
だから寛厳よろしきを得ることが大切なわけであるが、
ただこれは、厳しさと寛容さを半々に表わすということではない。
厳しさというものはなるべく少ない方がいい。
20%の厳しさと80%の寛容さを持つとか、
さらには10%は厳しいが、あとの90%はゆるやかである、
しかしそれで10分人が使えるというようなことが一番望ましいのではないだろうか。

公明正大

後漢の時代に、高潔をうたわれた楊震という政治家がいた。
この人がある地方の太守として赴任していったところ、
たまたま以前に引き立ててやった王密という人が夜分に訪ねてきて、
大枚の黄金を楊震に贈ろうとした。
楊震が受けとるのを断わると、
王密は「こんな夜中で、この部屋には私たち2人しか居ないのですから、誰にもわかりませんよ」と言った。
そのときに楊震は「誰も知らないと言うが、
君と私自身が知っているではないか」こう言ったという。

他人が知っているということよりも、まずみずからの心に問うて、
やましいところがないか、公明正大であるかということが大切だと思うのである。

小田原評定では……

多くの会社では決起大会をやり、
反省すべき点や、今後の目標を確認しあいます。
しかしそれも、
こうしなければならないということはわかった、
というだけではいけない、
実行がなければいけません。
実行ができない限りは、
100の決起大会を行っても、
それは費用を使うだけ、
時間を使うだけに終わってしまいます。

昔の話に小田原評定ということがあります。
大軍が攻めてくるということに対して、
小田原城の人は、
評定に明け評定に暮れてついに負けてしまったという話です。
それではいけない、評定は1回でよい、
あとは実行だ、そうしてこそ、
はじめて成果をあげられるのです。
一にも実行、二にも実行です。

一千万円の時間

先日、知人から「息子があなたに会いたがっている、
10分でもよいから会ってやってもらえないか」という依頼がありました。
10分ぐらいだったらと会いましたが、
後日その知人が、息子さんが「今日は 1,000万円儲かった」と、喜んでいたと言うのです。
「松下さんの10分間は、それだけの値打ちがある」というわけです。

私にそんなに値打ちがあるとは思いませんが、その考えは偉いな、と感心しました。
人の時間をさいて話を聞くとき、これをお金で評価する必要はないにしても、
単に話を聞いただけでなく、その行為に感謝して、
ある種の感慨を持たなければならないことを、
私はこの25歳の青年に教えられました。

苦労を希望に変える

仕事のコツを体得するということは、決して楽なわざではないと思います。
相当精魂を込めてやらなければならないと思うのです。
それはやはり一つの苦労だと考えられます。
しかし苦労であっても、それをやらなければ一人前になれないのだということを、
青少年の間から、常に先輩に聞かされていますと、それは苦痛でなくなってくるのです。
それは希望に変わるのです。
ですから、そのコツを体得することに対して精魂をかたむけるということができてくると思います。
そのように、いろいろむずかしい問題にも、心を励まして取り組んでいくところに、
自己の完成というか、自己の鍛えがあると私は思います。

富の本質

時代によって富についての考え方も変わってきます。
これまでは単に蓄積された物が富と考えられてきましたが、
経済の進歩した今日では、その物を生産し得る能力、
生産力こそが真の富だとも考えられます。

それでは生産力だけを増やせばいいかというと決してそうではありません。
生産は必ず消費に相応じなければなりません。
いくら生産しても、それが消費されなければ何の値打ちも持ちません。
すなわち、消費力があればこそ、生産力があるのです。
したがって生産力と消費力のバランスをとりつつ増大させていくことが、
富の増大であり、繁栄の道もそこから生まれてくると言えるのではないでしょうか。

部下が偉くみえるか

会社の社長さんで、
「どうもうちの社員はアカンワ。困っとんや」というように、
自分のところの社員を悪く言われる方があります。
ところが、そういう会社は必ずといっていいほど
うまくいっていないのです。
反対に「自分の部下はいい人間ばかりで、
ほんとうに喜んでいるのだ」というような方のところは、
みな成績も上がり商売もうまくいっています。

そういうことを考えてみますと、
上に立つ人が自分の部下は偉いと思うか、
それともアカンと思うかによって商売の成否が分かれてくるといってもいいように思います。
そんなところに経営なり人使いの一つのコツとでもいうものがあるのかもしれません。

何事も結構

私は運命というものは不思議なものだと思います。
人はみなそれぞれ志を立てるのですが、なかなか思い通りにいかないし、実現しにくい。
希望とは逆の道が自分にピッタリ合って成功する場合もあるのです。

だから私は、あまり一つのことをくよくよ気にしない方がいいのではないかと思います。
世の中で自分が分かっているのは1%ほどで、あとは暗中模索。
はじめから何も分からないと思えば気も楽でしょう。

とにかく人間にはさまざまな姿があっていいと思うのです。
恵まれた生活も結構だし、恵まれない暮らしも結構、何事も結構という気持が大切だと思います。

商道徳とは

商道徳とは何かということについては、むずかしい理屈もあるかもしれないが、
ごく通俗的に考えれば、商売人としての心構えとでもいうべきものであろう。
それは昔も今も同じであり、永遠に変わらないもののような気がする。
つまり、商売人には商売人としての使命がある。
だから、その使命に誠実に従い、ひたすらこれを果たしていくということである。

私がやってきた電器屋であれば、人びとの役に立つものを開発する。
しかも合理化をはかり、適正な利益をとりつつもなお、安くなるよう努める。
また配給もできるだけムダをなくす。
それが商道徳というもので、それは他のどんな商売にも言えるのではないかと思う。

会社の歴史を知る

われわれは、事を成すに当たって、
その事の成果を大事にすることはもちろんであるけれども、
同時にその成果を生むまでの過程をも、もっと重視したい。
そうすることによって、自然に謙虚さが生まれ、
軽率な判断も避けられる。

会社についても、今日ここにあるまでには、
やはりいろいろの道程を辿ってきたのである。
喜びもあったし苦しみもあった。
しかしどんなときも、お互いが心を結び合い、
隠忍自重、絶えまない努力を続けてきたのである。
そういう生い立ちなり道程については、
ある程度は知っておきたい。
仕事の知識もさることながら、
会社の歴史についても理解を持つことが、
やはり大切だと思うのである。

自然に学ぶ

自然の営みには私心もなければ、
とらわれもないと思います。
言ってみれば文字通り素直に物事が運び、
素直な形でいっさいが推移していると思うのです。
一輪の草花にしても、
私心なく自然に花を咲かせているのです。
そういった花の姿をみて、
もちろん何も感じない人もいるでしょう。
しかし、素直な心になりたいという
強い願いを持っている人の場合には、
あるいはそこに何らかのヒントを見出すかもしれません。

そういうことを考えてみると、
お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、
大自然の営み、自然の姿というものにふれて、
その素直さに学んでいくということも大切だと思います。

主座を保つ

指導者というものは、どんなときでも、自分みずから、
“このようにしよう”“こうしたい”というものは持っていなくてはならない。
そういうものを持った上で他人の意見を参考として取り入れることが大事なのであって、
自分の考えを何も持たずして、ただ他人の意見に従うというだけなら、
指導者としての意味はなくなってしまう。

要は指導者としての主体性というか主座というものをしっかり持たなくてはいけないということである。
主座を保ちつつ、他人の意見を聞き、ある種の権威を活用していく。
そういう指導者であってはじめて、それらを真に生かすことができるのだと思う。

商売は真剣勝負

商売は真剣勝負である。
真剣勝負では、首をはねたりはねられたりしているうちに勝つということはあり得ない。
それと同じで、商売は、ときによって損もし、
得もするが、それを繰り返しているうちに成功するものだ、
などと考えるのは、根本的に間違っている。

熱心にやるからには、失敗なしに成功しなければならない。
うまくいかないのは、環境でも時勢でも、運でも、何でもない。
その経営の行き方に当を得ないところがあるからだと考えなければならない。
真の経営者は、不景気に際して、かえって進展の基礎を固めるものである。

まず世間的な、信念のない考え方を改めることが大事であろう。

ゼロ以上の人間に

人間の生活はすべてのことが自分ひとりではできない。
着物にしても食べものにしても、
他の人の労作によってできたものだ。
そのかわり自分もなんらかの労作を他人に与えて生活が成り立っている。
つまり労作の交換である。
この労作を交換しない、
もらうばかりで与えるものがないというのでは役に立たない。
これはマイナスである。
プラスとマイナスがゼロ以上でなければ役に立つ人間とは言えない。

たとえば反物を三反もらったら、
それを四反にして提供する人になるということだ。
精神面でもこれは同じである。
人に対してより高い考え方を与える。
これが人と生まれて社会に役立つ人間の姿であろう。

叱ってもらえる幸せ

叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である。
叱ってくれ手のないことは寂しいことである。
どんな人でも、より多く叱ってもらうことにより、
進歩向上が得られるのだ。

叱られて反感を持ち、
不愉快な態度を示すことは、
再び叱ってもらえる機会を失うとともに自己の進歩はもうそれで行き詰まりとなる。
叱ってもらうことは自己向上の一大資料であることを感じて、
これを受け入れてこそ、
そこに効果が生まれるのである。

修業途中にある諸君は、
叱ってもらうことの尊さを知り、
叱られることに大いなる歓びを感じる境地に到達しなければならないと思うのである。

まかせてまかせず

「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますが、
人に仕事をまかせる場合、原則としては、
こういう仕事をやりたいと思っている人にその仕事をまかせる、
ということがいいのではないかと思います。

しかし、まかせてはいるけれども、たえず頭の中で気になっている。
そこでときに報告を求め、問題がある場合には、
適切な助言や指示をしていく。
それが経営者のあるべき姿だと思います。
これは言いかえますと“まかせてまかせず”ということになると思います。
まかせてまかせずというのは、
文字どおり“まかせた”のであって、
決して放り出したのではないということです。

失敗を素直に認める

たとえ、どんな偉大な仕事に成功したという人でも、
何の失敗もしたことがないといった人はいないと思います。
事に当たって、いろいろ失敗して、その都度そこに何かを発見し、
そういうことを幾度となく体験しつつ、だんだん成長していき、
ついには立派な信念を自分の心に植えつけ、
偉大な業績を成し遂げるに至ったのではないでしょうか。

大切なことは、何らかの失敗があって困難な事態に陥ったときに、
それを素直に自分の失敗と認めていくということです。
失敗の原因を素直に認識し、「これは非常にいい体験だった。
尊い教訓になった」というところまで心を開く人は、
後日進歩し成長する人だと思います。

誠意が基本

経営を進めていく上で、
もっとも困難があろうと思われるのは販売です。
製造には新しい発見や発明がよく考えられますが、
販売にとりわけの妙案が生まれることは
なかなかむずかしいでしょう。

それでは、そのように妙案奇策のあまりない
販売の世界で特色を発揮し、
販売を成功させるために何が基本になるかというと、
結局はお互いの誠心誠意ではないでしょうか。
どうすればお得意様に喜んでいただけ、
どういう接し方をすればご満足願えるかを
常に考えることが何よりも大切で、
そういう誠意が根底にあってこそ、
その人の言葉、態度に深い味わいも生まれ、
販売力もまた高まっていくと思うのです。

不要なものはない

みなさんは、いろいろな立場にお立ちになっておられると思いますが、
私はどんな立場でも、この立場はいけない、
この仕事はまずいということはないと思います。
どの仕事が必要でなくて、
どの仕事が必要であるということはないのです。
この世に存在するものは、すべて必要である、
というように考えていただきたいと思うのです。

そしてそうした考えに立って、要は自分には何が適しているか、
何が向いているか、自分はどういうところに自分の使命を見出し、
そこに打ち込むべきであるかということを、
みずから考え、そしてそこに信念を持つことが大切だと思います。

社長は徳、副社長は賢

人の組み合わせというのは、
微妙なものだと思う。
たとえば、会社の場合、
非常に優秀な二人の経営者が社長と副社長になっても、
相性が悪いとうまくいかないものである。

総じて、どの会社でも、社長が積極的で、
副社長は女房役といったところが多いが、
原則としては最高首脳者はおだやかで、
次席がバリバリやる方が望ましいようだ。
つまり経営者の組み合わせとしては、
社長はお人柄で、副社長は実行力に富む、
といったあり方が安定感があるように思う。

王は徳をもって立ち、その下に賢相がおれば、
物事が徳望によって行なわれるという。
企業の経営についても同じことが言えるだろう。

世間に聞く

誰しも日々の仕事の中、
生きていく中で迷いは生じるもの。
いくら仕事に生きがいを感じていても、
それを進めていくにつれて迷いが生じます。
では、その迷いをどう解決するか。

私は広く衆知を集めればいいと思います。
広く世間にそれを求めればいい。
世間は道場、人間錬成の道場です。
大きくは社会に、
小さくは同僚、友だちに尋ねればいい。
そうしていくことによって、
そこに自分の具体的な活動の形が求められてくる。
尋ねて答えが返ってくる場合もあるでしょうし、
返ってこない場合もあるでしょう。
しかし、ある程度は返ってくる。
不十分ながらも返ってくる。
素直な心で求めることだと思います。

社長は心配役

社長というものは、従業員が1万人いれば1万人の心配を背負っていくものです。
ですから、心配で夜も眠れないというときもあります。
眠れないからつらい、苦しい。
しかし、そのように心配するのが社長の仕事なのです。
そのために死んでも、それは早く言えば名誉の戦死ではないか、
そう考えるところに社長としての生きがいも生まれてきます。

社長が心配しないでのんびりやれる会社などあり得ない。
眠れなかったり、煩悶したりしている姿こそ社長の姿で、
そこに社長としての生きがいがある。
そういう考え方に立つことが、
激動の時代である今日の経営者には求められているのではないでしょうか。

感心する

同じように人の話を聞いても、
「なかなかいいことを言うなあ」と感心する人もあれば、
「なんだ、つまらない」と思う人もいる。
どちらが好ましいかというと、
もちろん話の内容にもよるだろうが、「いいなあ」と感じる人の方により多く、
その聞いた話の内容から仕事に役立つような何かヒントを得て、
新しい発想をするといったようなプラスの価値が生まれてくるだろう。
ちょっとしたことだけれども、人生とか事業の成否のカギは、
案外こうしたところにあるのではないかと思う。
人の意見を聞いて、それに流されてはいけないが、
お互いにまず誰の意見にも感心し学び合うという柔軟な心を養い高めていきたいものである。

自分が社長の心意気を持つ

戦争中に、ある青年が会社の業務として、
一つの工場を売りに私の所へきました。
私は話を聞いた結果、「君が私の会社へ入って、
その工場の経営を引き受けてくれるのなら、買おう」と言うと、
彼は「私は社長ですから現在の会社をやめるわけにはいきません」と言下にそれを否定したのです。
「君は社員ではなかったのですか」と聞くと、
「いや、自分は社員ですが、心持は社長のつもりでいます」と言うのです。
この返事を聞いて、えらい人だなと思いました。

われわれも一人ひとりが、それくらいの心意気を持って仕事をすれば、
いろいろ新しいことも発見できるでしょうし、日々新たに成長もしていくと思うのです。

公平な態度

国における法律の適用には万が一にも不公平があってはならないが、
会社や団体における規律や規則についても、
これまた同じことが言える。
会社の規則というものは、
一新入社員であろうと社長であろうと等しくこれを守り、
それに反したときは等しく罰せられるということで、
はじめて社内の秩序も保たれ、士気も上がるのである。

だから、指導者は常に公平ということを考えなくてはならない。
利害とか得失、相手の地位、強弱にかかわりなく、
何が正しいかというところから、公平に賞すべきものは賞し、
罰すべきものは罰するという姿勢を遵守しなければならないと思う。

戦乱の中での商売よりも

昔の商人たちは、洋の東西を問わず、
戦乱のちまたの中にあって、
いつ流れ玉に当たって死ぬかもわからないという状態の中でも、
立派に商売を進めてきました。

しかし、今日では流れ玉に当たるというようなことはまずありません。
ですからそのような時代に比べると、
今日は困難であるとか経済危機であるとか言っていますが、
まだずいぶん楽である。
むしろ非常に商売のしやすい絶好の機会と言えるのではないでしょうか。

そう考えて自分の商売をもう一回見直し、
必要のあるところに創意工夫を加えていくことによって、
難関を切り抜けていくこともできるかと思います。

国際化時代と日本人

日本という国は、資源なき工業国として、
今後とも世界の諸国との密接なつながりの中で生きていかなければならない。
だから、いたずらに警戒されたり嫌われたりするようでは非常にマイナスである。
そうならないためには、日本人お互いが、
これまでの行き方を大いに反省し、
また誤解があれば誤解をといてもらえるように、
日本と日本人の考え方を正しく伝えていくことが必要である。
そのためにもまず大事なことは、
お互いにこの国日本と日本人自身というものの特性なり背景を、
みずからしっかり把握することではないだろうか。
そしてその上に立って、国際化時代に処する道を、
ともども真剣に考え合うことだと思う。

悩んでも悩まない

われわれ人間は、たえずといっていいほど悩みにつきまとわれる。
しかし私は、悩みがあるということは、
人間にとって大事なことではないかと考えている。
なぜかというと、常に何か気にかかることがあれば、
それがあるために大きなあやまちがなくなる。
心がいつも注意深く活動しているからである。

だから、悩みを持つことは、
むしろプラスにつながる場合が多い。
したがって悩みに負けてしまわず、
自分なりの新しい見方、解釈を見出して、
その悩みを乗り越えていくことが大切である。
悩んでも悩まない、そういうように感じることができれば、
人生は決して心配することはない。

人間観を持つ

人間の幸せを高めていくためには、
まず人間が人間を知ることが大切だと思う。
言いかえれば、人間とはどういうものであり、
どういう歩み方をすべきであるかという正しい人間観を持つということである。
そうした人間に対する正しい認識を欠いたならば、
いかに努力を重ねても、
それは往々にしてみのり少ないものになってしまい、
ときにはかえって人間自身を苦しめることにもなりかねない。

そういう意味において、指導者がまず正しい人間観、
社会観といったものを生み出し、
それに基づく指導理念を打ち立てていくならば、
それはきわめて力強いものになってくると思うのである。

業界の信用を高める

どんな商売もそうでしょうが、
自分の店が発展、繁栄していくには、
そのお店の属している業界全体が常に健全で、
世間の人びとから信用されていることが非常に大事だと思います。

もしそうではなく、
業界の中に不健全な店が多ければ、
「あの業界はだめだ、
信用できない」ということになって、
その業界に属する個々の店も、
同じような評価を世間から受け、
商売は成り立っていきにくくなるでしょう。

ですから、お互い商売を進めていく上で、
自分の店の繁栄をはかることはもとより大事ですが、
それと同時に、他の店ともうまく協調して、
業界全体の共通の信用を高めることを配慮することが、
きわめて大事だと思うのです。

母の愛

私は今でも、大阪へ奉公に出る息子の私を駅まで送ってきてくれた母の姿を、
はっきりと心に浮かべることができる。
涙で語ってくれた注意の言葉、
汽車が出るまでしっかり握って離さなかった手のあたたかみ……。
そのときの母の思いは、
大阪へ行ってからの私の幸せ、
私の健康を、言葉では言いあらわせないくらい心に念じていてくれたんだ、
としみじみ感じる。

このように、あふれるようなというか、
ひたすらな母の愛というものは、
今も私の心に脈々と生き続けているのであって、
これまで仕事を進めてこられたのも、
私の将来というものを心から祈ってくれた母の切なる願いの賜ものであろうと思っている。

プロの自覚

私は以前、寄席で短剣投げを見たことがある。
それは、女の人を壁の前に立たせ、
そのからだスレスレのところに次から次へと、
20本あまりの短剣を投げるのである。
そのときに私は“これがプロだな”と感じた。
わずかでも手もとが狂えば、
人の命にかかわるのである。
それを毎日毎日やり続けて一つの失敗もないというのは、
実に大変なことである。
しかし、それをやり遂げるのがプロである。

考えてみれば、
サラリーマンの仕事でも一緒である。
こういう厳しい境地に立って、
はじめて一人前として給料がもらえるということであろう。
今日のサラリーマンに要求されるのは、
アマチュアではない“プロ”の仕事である。

使い捨てと経済性

高度成長の時代に「使い捨て」「消費は美徳」という考え方が浸透しました。
私は時どき注射を打ちますけれども、
見ていると一度使った注射器をすぐ捨てています。
もったいないじゃないかと言ったら、
消毒するガス代、水道代、
洗う手間を考えたら捨てる方が安いというのです。
なるほど、生産の経済性というものがそこまで上がったのかと驚きました。
使い捨てというとたいへんもったいなく思えますが、
実は経済の法則にかなっているのです。
しかし昔のことを知っている人間には、
やはりもったいないという考えはある。
その考えは尊く、それはそれで残し、
経済性も重んじるということが必要だと思います。

気分の波をつかまえる

人間というものは、気分が大事です。
気分がくさっていると、
立派な知恵才覚を持っている人でも、
それを十分に生かせません。
また別に悲観するようなことでなくても悲観し、
ますます気が縮んでいきます。
しかし気分が非常にいいと、
いままで気づかなかったことも考えつき、
だんだんと活動力が増してきます。

私は人間の心ほど妙なものはないと思います。
非常に変化性があるのです。
これがつけ目というか、
考えなければならない点だと思います。
そういう変化性があるから、
努力すれば努力するだけの甲斐があるわけです。
そういう人間の心の動きの意外性というものを、
お互いにつかむことが大事だと思うのです。

熱意あれば

人の上に立つ指導者、管理者としての要諦というものは、
いろいろ考えられるけれども、
その中でも最も大事なものの一つは、
熱意ではないかと思う。
非常に知恵、
才覚において人にすぐれた首脳者であっても、
この会社を経営しようということに
熱意がなければ、その下にいる人も、
「この人の下で大いに働こう」という気分になりにくいのではないだろうか。
そうなっては、せっかくの知恵、
才覚もなきに等しいものになってしまう。
みずからは他に何も持っていなくても、
熱意さえ保持していれば、
知恵あるひとは知恵を、力ある人は力を、
才覚ある人は才覚を出して、
それぞれに協力してくれるだろう。

衆知を集める経営

会社の経営はやはり衆知によらなければいけません。
何といっても、全員が経営に思いをいたさなければ、
決してその会社はうまくいかないと思うのです。
社長がいかに鋭い、卓抜な手腕、
力量を持っていたとしても、
多くの人の意見を聞かずして、
自分ひとりだけの裁断で事を決することは、
会社の経営を過つもとだと思います。
世間一般では非常にすぐれた一人の人がワンマンで経営すれば、
事がうまくいくということをよく言いますが、
社長一人で事を遂行することはできませんし、
たとえできても、それは失敗に終わるだろうと思います。
やはり全員の総意によっていかになすべきかを考えねばならないと思うのです。

社員学の第一歩

社員はまず、社長をはじめ首脳者というものがいかに忙しい仕事をし、
いかにその職責が重大なものであるか、
ということを知っていただきたい。
私は社員学の第一歩は、
そこから始まると思う。
またそういうように、
社員が首脳者の苦労を知ると同時に、
社長や会社の幹部は、
社員の立場に対して理解を持ち、
そして社員の働き、
苦労に対して大いに感謝することが大切である。

こういうようなことに双方がなると、
どんな事業でも成功すると思う。
またそういう考え方がどの程度にあるのか、
ということによって、
その会社の将来を非常にはっきりと判定できると思うのである。

みずからを教育する

人間の教育にはもちろん立派な校舎も必要であり、
環境も必要でしょうが、
それのみに頼っていてはならないと思うのです。
行政の充実により、
なるほど環境はだんだんよくなってくるでしょう。
しかしそういう環境が
つくられたとしましても、
その中でそれぞれの人がみずからを処して、
みずからを教育してゆく。
自問自答しつつ、
より高きものになってゆくということを怠っては、
決して立派な人間は生まれてこないと思うのです。

きょうよりあす、あすよりあさってと、
みずからを高めてゆくところに人間の成長があり、
またそこから立派な人間が生まれてくるのではないでしょうか。

派閥の活用

“派閥の解消”ということがよく問題にされる。
しかし考えてみると、
私は派閥というものはおよそ人間の集まるところ、
どこにでもついてまわるものだと思う。
派閥をつくるのはいわば人間の本能であって、
いいとか悪いとかいう以前の問題ではないだろうか。

それならば、むしろ派閥を肯定した上で、
これを活用していくことを考えてはどうか。
つまり、各人がバラバラでいるよりもいくつかのグループになっていた方が、
全体としてまとめやすく、
より能率的に事が運べるわけである。

派閥は解消できない。
むしろあっていい。
大切なのは、派閥を真に生かす、
心の高まりだと思うのである。

断絶はない

最近の若い人たちの考え方が変わってきているといえば変わってきている。
そしてそこから断絶という受けとめ方も出てくるけれども、
おとなと若い人の間には、
いつの時代でもある程度の隔たりはあったわけである。
しかしそれは考え方の違いであり、
断絶とは考えられない。
それを何か断絶という言葉におどらされて、
おとなが言うべきことも言わないというのは、
非常によくないことだと思う。
断絶という言葉でみずから離れてしまってはいけない。

断絶はない。
しかし青年と中年、
老人とではおのずと考えが違う。
永遠にそうなんだ、
と考えてそれを調和していくところに双方の努力と義務があると思う。

日に新たな経営を

よく長い歴史と伝統を持った
“しにせ”と言われるところが、
経営の行き詰まりに陥ることがある。
そういうところは
正しい経営理念を持たないかというと
決してそうではない。
むしろ、創業以来の立派な理念が
明確に存在している。

しかし、そうしたものを持ちながら、
それを実際に適用していく
方針なりやり方に、
今日の時代に
そぐわないものがあるわけである。
もちろん、旧来のやり方でも好ましいものは
そのまま続ければいいわけだが、
やはり時代とともに改めるべきは
改めていかなければならない。

その時どきにふさわしい日に
新たな経営があってこそ、
正しい経営理念も永遠の生命を
持って生きてくるのである。

法律は国民自身のために

民主主義の政治のもとにおける法律は、
国民お互いの暮らしを守り、
それぞれの活動の成果を得やすくし、
一人ひとりの幸せを生み高めていくところに、
究極の目的なり存在意義があるのだと思います。
いってみれば、
国民が国民自身の幸せを
実現していくために
みずから法律を制定する、
というしくみになっているわけです。

したがって、国民お互いがこういう法律を軽視し、
無視するような姿がかりにあるとするならば、
それはいわば自分自身を軽んじ、
自分の尊厳を失うことにも通じると思います。
そのことをお互い国民は正しく認識しあい、
法律を常に正しく守りあってゆくことが
肝要だと思います。

カメの歩みの如く

カメの歩みというのは、一見のろいようだが、
私は結局はこのあせらず、騒がず、
自分のペースで着実に歩むというのが、
一番よいのではないかと思う。
手堅く歩むから力が培養されてゆく。
逆にパッとやればどうしても手堅さに欠けるから、
欠陥も出てくる。
だから見たところでは非常に伸びたようだが、
あとであと戻りをしなければ
ならないということも起こってくる。

ウサギのカケ足では息が切れる。
といってハヤ足でもまだ早い。
一番いいのはやはりナミ足で、
カメの如く一歩一歩着実に
歩むことではないかと思う。
人生行路だけではない。
事業経営の上でも、
大きくは国家経営の上においても同様であろう。

対立しつつ調和する労使

労使の関係は、
常に“対立しつつ調和”するという
姿が望ましいと思います。
つまり、一方でお互いに
言うべきは言い、
主張すべきは
主張するというように
対立するわけです。
しかし、同時にそのように
対立しつつも、
単にそれに終始するのではなく、
一方では、
受け入れるべきは受け入れる。
そして常に調和をめざしていくと
いうことです。
このように、調和を前提として対立し、
対立を前提として
調和してゆくという考えを
基本に持つことがまず肝要だと思います。

そういう態度からは必ず、
よりよきもの、
より進歩した姿とというものが
生まれてくるにちがいありません。

困難から力が生まれる

人間というものは
恵まれた順境が続けば、
どうしても知らず識らずのうちに
それに馴れて、
安易になりやすい。
昔から“治に居て乱を忘れず”と
いうことが言われ、
それはきわめて大切な
心構えであるけれども、
そういうことがほんとうに
100%できる人はおそらくいない。
やはりどんな立派な人でも
無事泰平な状態が続けば、
つい安易になる。
安心感が生じ、
進歩がとまってしまう。

それが、困難に出会い、
逆境に陥ると、そこで目覚める。
気持を引き締めて事に当たる。
そこから、
順調なときに出なかったような知恵が湧き、
考えつかなかったことを考えつく。
画期的な進歩、
革新もはじめて生まれてくる。

心を遊ばせない

指導者というものは、
常に心を働かせていなくてはいけない。
もちろん、それは四六時中仕事に
専念しろということではない。
それではとても体がもたない。
だからときに休息したり、
あるいはレジャーを
楽しむこともあっていいと思う。
ゴルフをするなり、
温泉に行くのもそれなりに結構である。

しかし、そのように体は休息させたり、
遊ばせたりしていても、
心まで休ませ、遊ばせてはいけない。
お湯のあふれる姿からも
何かヒントを得るほどに、
心は常に働いていなくてはならない。
全く遊びに心を許してしまうような人は、
厳しいようだが、
指導者としては失格だと思う。

会社は道場

仕事というものは、
やはり自分でそれに取り組んで、
体得していかなければならないものだと思う。
しかし自得していくには、
そのための場所というか、
道場とでもいうものが必要であろう。

ところが幸いなことに
その道場はすでに与えられている。
すなわち、自分の職場、
自分の会社である。
あとはその道場で進んで修業しよう、
仕事を自得していこうという
気になるかどうかということである。
しかも会社という道場では、
月謝を払うどころか、
逆に給料までくれるのだから、
こんな具合のよい話はない。
このような認識に立てば、
仕事に取り組む姿も、
謙虚に、
しかも力強いものになるはずである。

賢人ばかりでは

世の中は賢人が
そろっておれば万事うまくいく、
というものでは決してありません。
賢人は一人いれば、
それで十分なんです。
さらに準賢人が三人、
準々賢人が四人ぐらい。
そんな具合に人が集まれば上々でしょう。
賢人ばかりですと議論倒れで
一向に仕事がはかどらないと
いったようなことになりがちです。

一つの実例をあげれば、
ある会社で三人の立派な人物が、
お互いに協力しあっていたはずなのに
どうもうまくいかない。
そこで一人を抜いてみた。
すると残る二人の仲がピタッと合って
非常にうまくいき、
抜かれた人物も他の分野で成功した。
そんなことがよくあるものなのです。

知識を活用する訓練

松下政経塾には、
優秀な先生方に講師として来てもらうわけですが、
普通の学校のような授業はやらない。
まず、学生が質問をして
それを先生に答えてもらう形式をとる。
質問するものがなかったら、
先生は何も言ってくれないと
いうようにしたいんです。
質問をするためには
疑問を持たなければならない。
疑問を持つに至るまでの勉強は
自分でやらなければならないというわけです。

つまり、知識を与えるのではなく、
持っている知識を活用する能力を
育てていく訓練を重ねて、
自分の考えを堂々と主張できるような
人間になってもらいたいという
願いを持っているのです。

福祉はみずからつくるもの

お互いの福祉を
向上させていくことは
好ましいことであり、
基本的には大いに推進されていい。
しかし問題は誰がそれを生み出すかである。

今日、一つの風潮として、
国民は国がいろいろやってくれるだろうと思い、
国は国民の税金を頼り、
足りなければ増税したらいいという
安易な考えがある。
それぞれが何とかなるだろうと
考えているわけである。
しかし、福祉を高めていくのに
必要な資金は、
みな国民が営々として働き生み出した
税金にほかならない。
つまり福祉を行なうのは
形の上では国であっても、
国民なのである。
そういう認識を深くし、
福祉の向上のために
お互い何をすべきかを
考えることがきわめて大事だと思う。

心が通った商売

商売というものは、
形の上だけで見れば、
品物を売って代金をいただくということですが、
それでは自動販売機と変わりません。
そこにやはり買っていただいてありがたい、
という感謝の気持、
お客さまが大事、
といった気持を持つことが、
商売本来のあり方だと思います。

よく昔の商人は
「お客さまの家の方には足を向けて寝ない」と
いうほどの感謝の気持で客に接したと言います。
そうすると、
そういうものがおのずと客にも伝わり、
同じ品物でもあの店で買おうということになって、
両者の心が通い、
社会全体が潤いのあるものになってきます。
私は商売にも“物心一如”と
いうことがきわめて大切だと思うのです。

目標を与える

指導者にとって必要なことは、
目標を与えることである。
指導者自身は特別な知識とか、
技能は持っていなくてもよい。
それは専門家を使えばいいのである。
しかし目標を与えるのは指導者の仕事である。
それは他の誰がやってくれるものでもない。
もちろん、その目標自体適切なもので
なければならないのは当然である。
だからそのためには、
指導者はそういう目標を生むような哲学、
見識というものを日ごろから養わなくてはならない。

自分の哲学なり、
体験に基づいて、
その時どきに応じた適切な目標を次つぎと与える。
指導者はそのことさえ的確にやれば、
あとは寝ていてもいいほどである。

自分の会社を信頼する

新しく会社に入られたみなさんにとって
大事なことはいろいろあるでしょう。
しかし、私は基本的に言ってまず一番大事なのは、
みなさんが自分の会社を
信頼するこということではないかと思います。
みなさんの会社が、
みなさんを迎えたのは、
みなさんを信頼しているからです。
またみなさんもその会社を信頼して入ったわけです。

だからみなさんは、
自分は会社を信頼しているのだ、
そしてよき社員になるのだ、
そして会社を通じて、
人間として社会奉仕をするのだと考える。

そう考えていたなら、
まず失敗することはないだろうと思います。

しつける

日本人は、頭もよく、
素質も決して劣っていない。
だから何がいいか、
悪いかぐらいは
百も承知しているはずであるが、
さてそれが行動になって
表われたりすると、
たちまち電車に乗るのに列を乱したり、
公園や名所旧跡を汚したりしてしまう。

やはりこれはお互いに
「しつけ」が足りないからではないかと思う。
いくら頭で知っても、
それが子どものときから
しつけられていないと、
いつまでたっても
人間らしい振舞が
自然に出てこない。
つまりせっかくの知識も
「しつけ」によって身についていないと、
その人の身だしなみもよくならず、
結局社会人として
共に暮らすことが
できなくなってくるのである。

信頼すれば……

人を使うコツはいろいろあるだろうが、
まず大事なことは、
人を信頼し、
思い切って仕事をまかせることである。
信頼され、まかされれば、
人間は嬉しいし、
それだけ責任も感じる。
だから自分なりにいろいろ工夫もし、
努力もしてその責任を
全うしていこうとする。
言ってみれば、
信頼されることによって、
その人の力がフルに
発揮されてくるわけである。

実際には100%人を
信頼することはむずかしいもので、
そこに、
まかせて果たして大丈夫かという
不安も起こってこよう。
しかし、
たとえその信頼を裏切られても 案外に人は信頼にそむかないものである。

社会人としての義務

われわれお互いが、
みずから進んで
常識を豊かにしてゆくとか、
仕事の力をさらに高めてゆくということは、
もちろん自分自身のためではありますが、
それは同時に、
社会に対する一つの義務でもあると思います。
たとえば、われわれの社会で、
すべての人が一段ずつ進歩したとするならば、
社会全体も一段向上します。
ところが他の人がみな三段進歩したのに
自分は一段も進歩しなければ、
社会全体の平均の段数は
三段上がらないことになります。
自分ひとりのために
全体の水準の向上が犠牲になるわけです。

われわれは、
このような社会人としての義務感をしっかり認識し、
日々努めなければならないと思います。

寝食を忘れて

よく「寝食を忘れて打ち込む」と言いますが、
自転車用のランプを造ったときの私は、
まさにそんな状態だったように思います。
しかし、つらいとか苦しいといったことは
少しも感じませんでした。
それはやはり私が、
それまでの自分の体験なり
世の人びとの姿から、
このままでは不便だ、
何とかより便利なものを
造り出したいという強い願いを持ち、
と同時に私が、
そのような仕事が
非常に好きだったからだと思います。
「必要は発明の母」という言葉がありますが、
新しい物を生み出すためには、
その必要性を強く感じ、
その実現のために
一生懸命打ち込むことが大切だと、
そのとき、しみじみと感じました。

人をひきつける魅力を持つ

指導者にとって、
きわめて望ましいことは、
人をひきつける魅力を持つということだと思う。
指導者に「この人のためには……」と
感じさせるような魅力があれば、
期せずして人が集まり、
またその下で懸命に働くということにもなろう。

もっともそうは言っても、
そうした魅力的な人柄というものは
ある程度先天的な面もあって、
だれもが身につけることはむずかしいかもしれない。
しかし、人情の機微に通じるとか、
人を大事にするとかいったことも、
努力次第で一つの魅力ともなろう。
いずれにしても指導者は
“ひきつける魅力”の大切さを知り、
そういうものを養い高めていくことが
望ましいと思う。

文明の利器は人類の共有財産

私は、人類の生み出したさまざまな利器は、
それが誰によって発明され、
どこの国で開発されたものであっても、
原則としては人類全体で分け持つべきであり、
正しく生かし合うべきだと考えている。
つまりそれらは人類の共有財産なのであって、
その価値を国境を越え、人種を越え、
あるいは時代を越えて分かち合おうと願うのは、
これは人間として当然持つべき心情であり、
社会的態度だと思う。

衆知を生かし合い、
協力して共同生活を高めていくところに、
人間本来のすぐれた特性がある。
そのことをお互いに自覚実践することなくして、
自他ともの繁栄、平和、
幸福は求められないであろう。

ガラス張り経営

私はいわば“ガラス張り経営”とでもいうか、
経営なり仕事のありのままの姿を
社員に知ってもらうという方針でやってきた。
それによって全員が経営しているのだという
意識がごく自然に生まれ、
自分の自主的な責任において
仕事をしていくという
好ましい気風がでてきたように思う。
また人もおのずと育つということにもなった。

そういうことを考えてみると、
やはり従業員に対しては
その時どきの方針はもちろん、
経営の実態についても、
できるだけ秘密を少なくして、
いいことにせよ、悪いことにせよ、
いろいろ知らせるようにしてゆくことが望ましいし、
大切なことだと思う。

知識は道具、知恵は人

知識と知恵。
いかにも同じもののように
考えられるかもしれない。
けれどもよく考えてみると、
この二つは別のものではないかという気がする。

つまり、知識というのはある物事について
知っているということであるが、
知恵というのは何が正しいかを知るというか、
いわゆる是非を判断するものではないかと思う。
言いかえれば、
かりに知識を道具にたとえるならば、
知恵はそれを使う人そのものだと言えよう。
お互い、知識を高めると同時に、
それを活用する知恵をより一層磨き、
高めてゆきたい。そうしてはじめて、
真に快適な共同生活を営む道も
開けてくるのではないかと思うのである。

運命を生かすために

サラリーマンの人びとが、
それぞれの会社に入られた動機には、
いろいろあると思う。
中には何となく入社したという人もあるかもしれない。
しかしいったん就職し、
その会社の一員となったならば、
これは“ただ何となく”ではすまされない。
入社したことが、
いわば運命であり縁であるとしても、
今度はその上に立ってみずから志を立て、
自主的にその運命を生かしていかなくてはならないと思う。

そのためにはやはり、
たとえ会社から与えられた仕事であっても、
進んで創意工夫をこらし、
みずからそこに興味を見出してゆき、
ついには夢みるほどに仕事に
惚れるという心境になることが大切だと思う。

使命観を持つ

人間は、ときに迷ったり、
おそれたり、
心配したりという弱い心を一面に持っている。
だから、事を成すに当たって、
ただ何となくやるというのでは、
そういう弱い心が働いて、
力強い行動が生まれてきにくい。
けれども、そこに一つの使命を見出し、
使命観を持って事に当たっていけば、
そうした弱い心の持ち主といえども、
非常に力強いものが生じてくる。

だから指導者は、
つねに事に当たって、
何のためにこれをするのかという
使命観を持たねばならない。
そしてそれをみずから持つとともに、
人びとに訴えていくことが大事である。
そこに“千万人といえども我ゆかん”の
力強い姿が生まれるのである。

夢中の動き

「この観音さまはノミがつくってくれた。
自分は何も覚えていない」というのは、
版画家、棟方志功さんの言葉である。
私はたまたまこの棟方さんが
観音さまを彫っておられる姿をテレビで拝見し、
その仕事に魂というか
すべてをつぎ込んでおられる姿に深く心を打たれた。
一つ一つの体の動きが意識したものでなく、
まさに“夢中の動き”とでもいうか、
そんな印象を受けたのである。
その姿から、
人間が体を動かしてする
作業というものの大切さを
つくづくと感じさせられた。

機械化に懸命な今日だからこそ、
魂の入った作業というものの大切さを、
お互いに再認識する
必要があるのではないだろうか。

新入社員を迎えて

新入社員を迎えると、
会社にも個々の職場にも
新鮮な雰囲気が生まれてくる。
先輩の人びとも、
自分の初心を改めて思い起こし、
そこにみずから心機一転の思いを持つ。
この時期は一つの飛躍のための
得がたい機会であるとも言える。

しかし、そうしたプラス面とともに、
新入社員が加わることによる
マイナス面も見忘れてはならない。
いかに優秀な素質を持った人でも、
仕事についてはまったく経験がないのだから、
先輩が一から教えなければならない。
ということは、先輩たちの能率も落ち、
会社全体の平均的な実力は
一時的には低下してしまう。
このことをはっきり認識した上で、
さらに気を引き締めてやることが大切だと思う。

国民の良識を高める

民主主義の国家として
一番大事なものは、
やはりその民主主義を
支えてゆくにふさわしい
良識が国民に養われていると
いうことでしょう。
さもなければその社会は、
いわゆる勝手主義に陥って、
収拾のつかない混乱も
起こりかねないと思います。

ですから、国民お互いが
それぞれに社会のあり方、
人間のあり方について高度な常識を
養っていかなければなりません。
国民の良識の高まりという
裏付けがあってはじめて、
民主主義は花を咲かせるのです。
民主主義の国にもし良識という
水をやらなかったならば、
立派な花は咲かず、かえって変な花、
醜い姿のものになってしまうでしょう。

魂を入れた教育

“事業は人なり”と言われるように、
人材の育成ということは
非常に大切だと思います。
最近ではどこの会社や商店でも、
従業員教育の制度や組織をもうけたりして、
教育に力を入れているようですが、
やはり何よりも大切なのは、
その教育にいわば魂を入れることだと思うのです。

つまり、経営者なり店主の人格の反映というものが、
そこになくてはならないということです。
それは言いかえれば、
経営者なり店主が働きにおいて模範的であること、
熱心であるということです。
経営者、
店主にそういうものがあれば
しぜん従業員にも反映して、
従業員の模範的な働きが生まれ、
人が育ってくると思うのです。

同僚の昇進に拍手

われわれ人間として
ありがちなことですが、
いかにも肚が小さいのではないかと
思うことがあります。
たとえば、
同じ職場の同期の誰かが昇進すると、
それをしっとする、
そしてひがむということが少なくありません。
また反対に失敗した人があると、
かげで喜ぶという心の貧困な風景もあるようです。
そういう人は、
それこそ昇進させるに不足な人間なのです。
人間ができていないことを
公表しているようなものだと思います。

ひとの昇進や成功に拍手を送る素直な心を持ち、
日々の仕事に命がけで打ち込むなら、
そういう人に適当な処遇をしない職場は、
まずないであろうというのが、私の考えです。

会社のよさを話す

外に出て自分の会社のことを
悪く言う社員がいる。
それはやはり社員の教育が
十分にできていないからであろう。
つまり、中には個人的不満があって
会社の欠点を言う人もあろうが、
より多くは、会社のよさというものが
社員によく理解されていないから
そういうことになるのだと思う。

この会社はこういう創業の理念を持ち、
こういった歴史、伝統があるのだ、
こういうことを使命としているのだ、
そしてこのように世間に貢献し、
これだけの成果を上げているのだ、
ということを常日ごろから
社員に教えるというか訴える。
そういうことがきわめて
大事だと思うのである。

学ぶ心

人は教わらず、
また学ばずして何一つとして考えられるものではない。
幼児のときは親から、
学校では先生から、
就職すれば先輩から、
というように教わり、
学んでのちはじめて自分の考えが出るものである。

学ぶという心がけさえあれば、
宇宙の万物はみな先生となる。
物いわぬ木石から秋の夜空に輝く星くずなどの自然現象、
また先輩の厳しい叱責、
後輩の純粋なアドバイス、
一つとして師ならざるものはない。
どんなことからも、どんな人からも、
謙虚に、素直に学びたい。
学ぶ心が旺盛な人ほど、
新しい考えをつくり出し、
独創性を発揮する人であるといっても過言ではない。

会社に入ったからには……

会社を選ぶということは、
みなさんの将来の方向を決定する
一番重大な問題だったろうと思います。
単に一ぺん入ってみようかということではなく、
この会社に生涯職を奉じようという
固い決意を持って臨まれたと思うのです。

だから、今後長い生涯におもしろくないことや、
いろいろな煩悶が起こることもあるでしょう。
しかしだからといって会社を辞めるというような
頼りないことを考えるのではなく、
やはりどこまでもこの会社の社員として
道を開いていこうという
覚悟を持っていただきたいと思います。
うまくいかない場合には
他に転向するというようなことでは、
そこに力強いものは生まれてこないと思います。

まず人の養成を

最近では、
サービスの大切さということがさかんに言われ、
どういう商売でも、
それなりの制度なり、
体制というものを逐次充実させつつあると思います。
そのことは大いに結構であり、
必要なことでしょうが、
その任にあたるサービス員の養成が十分でないと、
せっかくの体制も、
いわゆる画龍点睛を欠くということになって、
魂の入らないものになってしまうおそれがあります。

ほんとうにお客様に喜んでいただける
サービスをしていくには、
やはり会社を代表して適切にものを言い、
適切に処置ができるという人の養成、
訓練を第一に大切なことと考え、
その労を惜しまないということだと思います。

人間はダイヤモンドの原石

私は、お互い人間は
ダイヤモンドの原石のごときものだと考えている。
ダイヤモンドの原石は磨くことによって光を放つ。
しかもそれは、磨き方いかん、
カットの仕方いかんで、さまざまに異なる、
さん然とした輝きを放つのである。
同様に人間は誰もが、
磨けばそれぞれに光る、
さまざまなすばらしい素質を持っている。
だから、人を育て、
活かすにあたっても、
まずそういう人間の本質というものをよく認識し、
それぞれの人が持っているすぐれた
素質が活きるような配慮をしていく、
それがやはり基本ではないか。
もしそういう認識がなければ、
いくらよき人材があっても、
その人を活かすことはむずかしいと思う。

縁あって

袖振れ合うも他生の縁
--という古いことわざがあるが、
人と人とのつながりほど不思議なものはない。
その人が、その会社に入らなかったならば、
その人とはこの世で永遠に
知りあうこともなかっただろう。

考えてみれば人びとは大きな運命の中で、
縁の糸であやつられているとも思える。
こうしたことを思うと、
人と人とのつながりというものは、
個人の意志や考えで簡単に切れるものではなく、
もっともっと次元の高いものに
左右されているようである。

であるとすれば、
お互いにこの世の中に
おける人間関係をもう少し大事にしたいし、
もう少しありがたいものと考えたい。

道は無限にある

お互い人間というものは、
常にみずから新しいものをよび起こしつつ、
なすべきことをなしてゆくという
態度を忘れてはならないと思います。
お互いが、日々の生活、仕事の上において、
そういう心構えを持ち続けている限り、
1年前と今日の姿には
おのずとそこに変化が生まれてくるでしょうし、
また1年先、5年先にはさらに新たな生活の姿、
仕事の進め方が生まれ、個人にしろ事業にしろ、
そこに大きな進歩向上がみられるでしょう。

大切なことは、そういうことを強く感じて、
熱意をもって事に当たるという姿勢だと思います。
そうすればまさに“道は無限にある”という感じがします。

引き下がる決断

やるべきときにやる、
引くべきときに引く、
いわゆるこの出処進退ということが、
人間として、
とくに経営者として
一番大事なことではないでしょうか。

たとえば、
ある一つの仕事がもう一つうまくいかず、
やめた方がいいとなった場合、
そこにはやはり何らかの犠牲が伴います。
世間からもいろいろな批判を受けるでしょう。
また信用も失墜するかもわかりません。
しかしそれを惜しんでいてはいけない。
惜しんでいるとなかなかやめられない。
やはりそういうものにとらわれず、
やめるべきものは
やめるんだという引き下がる決断をすることが
経営者として大切だと思うのです。

給料は社会奉仕の報酬

給料というものは、
自分の生活を営む上で
当然必要であるから、
働くことの一つの目的ではあろうが、
もっと大事な目的を
忘れてはならないと思う。

それは、自分の仕事を通じて、
あるいはそのつとめた会社、
商店を通じて、
社会に尽していくということである。
いわば職業人として、
産業人としての使命を
よりよく遂行していくことである。
大きな意味で言えば、
人間としての使命を
果たしていくことにも通じると思う。

だから見方を変えれば、
給料というものは、
そのように仕事を通じて
社会に奉仕貢献していくことの
報酬として与えられるものとも考えられよう。

身を捨てる度胸

人生というものには、
いろいろな問題があります。
しかし、
それらのことも過ぎ去ってみると、
あのときに迷わないでやって
ほんとうによかったな、
というような場合が多いのです。
そこが大事なところだと思います。
ある場合には迷うこともあるでしょう。
しかし、しょせん迷っても
お互い自分の知恵裁量というものは、
ほんとうは小さいものです。
だから、「これはもう仕方がない。
ここまできたのだから
これ以上進んで結果がうまくいかなくても、
それは運命だ」と度胸を決めてしまう。
そうした場合には、
案外、
困難だと思っていたことがスムーズにいって、
むしろ非常によい結果を生む、
ということにもなるのではないかと思うのです。

百年の計を立てる

終戦後、
日本が大きな経済発展を
遂げてきたということは
確かに事実ですが、
それが果たして真の経済発展で
あるかどうかというと、
いろいろ疑問があります。
少なくとも、
20年なり30年前に、
20年後、
30年後の日本をこういう状態に
持っていくんだという計画を
立てて取り組んだのではなく、
いわば無我夢中で働き、
ハッと気がついたら経済大国になっていた、
というのが実情だという感じがします。

しかしここへきて、
今後ともこういう状態ではいけない。
本当に永遠に通じるような
正しい哲理哲学のもとに、
大きな理念を打ち立て、
そして100年、
200年の計を立てる時期に
いまはきていると思います。

見えざる契約

今日、何千万人という需要家の方がたが、
生活を豊かにしていくために物が欲しいというとき、
それが現実に手に入らなければ、
非常に不自由な思いをせざるを得ないでしょう。
私たちはあらかじめそういうことを予期して、
万般の用意をしておかねばなりません。
それはいわば、
私たちと大衆との見えざる契約だと思うのです。
別に契約書があるわけではありませんが、
私たちはこの見えざる契約、
声なき契約をよく自覚する必要があります。
そして、その契約を遂行していくために、
常日ごろから万全の用意をしておくことが、
私たち産業人に課せられた、
きわめて大きな義務であり責任だと思うのです。

権限の委譲

一人の人間の力というものは
どうしても限りがある。
その限りある力以上のことをしたり、
させたりすれば往々にして失敗する。
力にあった適正な範囲で事を行なうのが
一番よいのであって、
その事が力に余るようであれば、
それを分割して何人かの力によって
行わせることが望ましい。

指導者としては、
仕事を適切な大きさに分け、
その分野については責任と権限を委譲して、
各人の力に応じた仕事を
徹底してしてもらうことを
考えなくてはならないと思う。
それぞれの責任範囲を
はっきりさせることによって、
仕事にムダがなくなり、
能率もあがるようになるのである。

協調性を持つ

みなさんが、
それぞれの会社の社員である以上は、
多数の同僚と相接して
仕事をしなければならないと
いうことになりますから、
人の立場を重んじない、
いわゆる協調性の少ない人は
困ると思うのです。

自分はこう思うが、
あの人はああ思うのだな、
それも一つの考え方だろうな、
というように人の言に耳を傾ける、
というところに協調性が成り立つのです。
もちろん、
自己というものを卑屈にして
協調せよというのではありません。
けれども自己にとらわれた
主張は協調性を欠きます。
この点は、
どのような立場にいようと考えなければならない、
非常に大事な問題ではないかと思います。

即断即行

昔から「兵は神速を貴ぶ」という言葉がある。
一瞬の勝機を的確につかむかどうかに
勝敗の帰趨がかかっている場合がある。
そういうときにいたずらに
躊躇逡巡していたのでは
機会は永遠に去ってしまう。
だから大将たる者は、
即断、即行ということがきわめて大事である。

これは何も戦にかぎらず、
一国の運営、会社でも同じである。
情勢は刻々にうつり変わっていく。
だから一日の遅れが一年の遅れを
生むというような場合も少なくない。
もちろんきわめて慎重に時間をかけて事を
運ぶことが必要な場合もある。
しかし大事にあたって即断、
即行できる見識と機敏な実行力は
指導者に不可欠の要件だと言えよう。

迷いと判断

私は極小の商売から今日までの間、
たとえば“新しい仕事をすべきか否か”を決める場合、
全部自分一人で決断してきたかというと、
決してそうではありません。
自分はやりたいと思うけれども、
それだけの力があるかどうか
自分で判断がつかないと
いうときも実際ありました。

そういうときにはどうしたかというと、
第三者にすっかり打ち明けて
「いまこういうことで迷っているんだ、
君ならどう思うか」と尋ねました。
「それは松下君、あかんで」
「きみの力やったらやれる」と
いろいろ言ってくれる。
迷ったときには、
私は得心のいくまで他人の意見を
聞いてみるということを
やりながらだんだん大きくなってきたのです。

春を楽しむ心

草木は芽を出し、
蕾はほころびて
伸び伸びと成長する春の季節。
春はまさに万物成長のときと言えるでしょう。

私たちもこんな春を迎えて、大いにこれを楽しみ、
大いに成長していかなければ
ならないと思います。
春を楽しむ心は、
人生を楽しむ心に通じます。
長い人生には、
ときには不愉快なこともあり、
面白くないときもありますが、
春を楽しむように
人生を楽しむ心があるならば、
やがてまた春のそよ風のように、
心もやわらいで、
生き甲斐も感じられてきます。
そして野山の樹々が
一年一年と年輪を加えていく如く、
お互いの心も、
去年よりも今年、
今年よりも来年と
一年一年成長していくと思うのです。

まず自分から

反省を求める者には反省を求める、
また自分たちにおいて反省すべき点があれば、
大いに反省して協力体制をとってゆく。
そういうことを誰かが言い出し、
誰かがやらねばならないのに、
誰もが非常な安易感に浸ってしまって、
成りゆきまかせ、
他人まかせになってしまっている。
それが日本の現状でしょう。
これでは物事は好転していきません。
きょう一日が過ぎれば、
あすはあすの風が吹くだろうというような、
事なかれ主義はいつか行き詰まります。

お互いに全体として
考え直そうという行き方を“誰か”ではなく、
まず自分が生み出さなくてはならないことを
深く自覚すべきだと思うのです。

日本の資源は人

日本の資源は人そのものです。
いま日本から人を5千万人も取ったら、
日本はまいってしまいます。
人が多いのは資源の多い姿です。
しかも、普通の資源であったらじっとしていますが、
人間は働きます。
一方で費やすという点もありますけれど、
やはりそれ以上のものを
つくり出すものを持っています。
われわれは、
この人間が資源であるということを
はっきりと認識することが
大事だと思います。
また人間という無限の資源を
持っているのだということを
もっと教えなければいけないと思います。

もちろん人が多いというだけではダメで、
その質をよくすることが
必要なのは言うまでもありません。

年功序列と抜擢

それぞれ長短のある年功序列、
抜擢をどのように
行なっていくかということは、
それぞれの企業の実態、
情況により一概には
言えないと思うが、
私自身について言えば、
だいたい年功序列70%、
抜擢30%というような感じでやってきた。
これが反対に年功序列30%、
抜擢70%になると
非常に面白いと思うのだが、
それはやはりまだ先のことで、
今日の日本においては、
年功序列を主体としつつ、
そこに適度に抜擢を
加味していくことが
無理のない姿だと思う。

しかし考えてみれば、
抜擢の何十%かは賭けである。
だが、ときにはあえて
その冒険をおかす勇気を持つことが、
企業発展の上で
求められている時代であると思う。

修養に場所を選ぶな

人は若い間の心がけのいかんにより、
後にずいぶん差の生ずるものである。
もし若い時代に自己実力の養成に励まず、
修養に努めなかったならば、
必ず後年、後悔するときがくると思う。

しかるに若い人の間で
「この仕事は自分の性分に合わない、
あの主任の下ではどうも働き甲斐がない」と、
不足をもらす人がある。
これは自己中心の物の考え方の弊害であろう。

真に自己の適所を見出すまでには、
いろいろな経験を積まなければならない。
また性格、
意見の異なった指導者の下で
自己を磨くことによってこそ、
かえってよりよく修養が
得られるものであることを、
深く知らなければならないと思う。

60%の可能性があれば

ある仕事をある人にしてもらう場合、
その人が適任かどうかと
いうことがきわめて重要ですが、
実際には、
それはなかなかわかりません。

それではどうするかということですが、
この人だったらまあ60%ぐらいは
いけそうだなと思ったら、
もう適任者として決めてしまうのです。
80点までの人を求めるということも
不可能ではないでしょうが、
しかしそれには非常に時間と
手数がかかります。
だから、これならまあ60点ぐらいは
あるなと思ったらもう、
「君大いにそれをやってくれ」と
いうようにするわけです。
するとたいていうまくいくのです。
全部が全部ではありませんが、
中には100点満点ということもあります。

会社の力を見きわめる

私は常に自分の会社の
自己検討ということをしています。
要するに新しい一つの仕事を始めるにしても、
それは考えのうちに入れておくだけで
すぐには手をつけません。
きょう手をつけるのは、
きょうの自分の食欲に合ったものだけです。
それ以上はいくらおいしくても食べません。
それが自分の腹であれば、
うまく調節できますが、
事業欲は食べすぎても
調節するものがありませんから、
ただ自分の良識によって
調節するしか方法がありません。
だから常に自己反省をして、
あわせて会社の総合力を検討し、
それにふさわしい仕事を
していこうと心がけています。
そこを見きわめることが、
経営者として、
非常に大事なことだと思います。

人間疎外は人間が生む

現代文明における、
科学技術の発達によって
人間が軽視され、
忘れられているということが
問題になっています。
そういった人間疎外を
なくすためには、
常に人間の幸せということが
前提にされなくてはなりません。
「なぜこういう新しい機械を造るか」
「それは人間の幸せのためである」と
いうことがいつも考えられ、
それに基づく配慮がなされるならば、
どんな機械が生み出され使われても
人間疎外は起こらないと思います。

現実に人間疎外のような観を呈しているのは、
機械が人間を疎外しているのではなく、
人間自身が人間を大事にせず、
人間疎外を生んでいるものではないでしょうか。

よしみを通じて

最近は商売の上での競争が大変激しくなり、
同業者どうしでも、
ともすればお互いを競争相手とばかり考えているようです。
もちろん競争意識は必要でしょうが、
考えてみれば、
誰も争うために
商売をしているわけではありません。

ですから、近所に新しく同業者の
お店ができたからといって、
目にカドを立てるのでなく、
おおらかに迎える。
新しいお店の方も、
先輩に対し謙虚な気持でいわば“仁義”をきる。
そういう好もしい姿は、
お客さまのお店全体に
対する信用を高めることになるでしょう。
だから一方で適正な競争をしつつも、
同じ道にたずさわるお店どうし、
お互いによしみを通じていくことが
大切だと思うのです。

得心がいく仕事を

私たちが仕事なり商売を進めていく上で、
いいかげんな妥協をしない、
言いかえれば自分に得心がいくまでは
仕事を進めない、
ということが非常に大事ではないかと思います。
たとえば、
かりにある品物に大量の注文があったとします。
そういう場合に、ともすれば、
あとで注文が取れなくては困るからというので、
つい安易に妥協しがちになります。
けれども、
そのようなときに往々にして失敗があるわけです。

ですから、
いかなる人の注文であっても
自分が得心しない仕事は
進めないという基本の考えを
しっかり持たないと、
仕事が大きくなり扱う品物が
多くなるにつれて
収拾がつかなくなってしまいかねないと思うのです。

塩の辛さはなめてみて……

たとえば水泳の先生が、
3年間講義をしたとします。
それでこの講義を受けた人がすぐ、
泳げるかといいますと、
必ずしも泳げないと思うのです。

また、塩の辛さというものでも、
塩をなめさせることをしないで、
塩は辛いぞ、
と言ってもわからないでしょう。
塩の辛さはなめてみてはじめて、
ああこれが塩の辛さやな、
とわかるわけです。

処世のコツとでも申しますか、
お互いの人生において
大切な事柄を会得するということも、
事を行なって、そのやったことを、
仔細に考え検討してゆくところから、
はじめて可能になるのではないかと
私は思います。

日本の伝統精神

私は日本の伝統精神は
きわめてすぐれたものだと思います。
ではその伝統精神とは何か。

その一つは「和を以って貴し」とする
平和愛好の精神です。
1350年も前に、
この「和」の精神が
聖徳太子によって掲げられています。

第二は「衆知を以って事を決す」という、
つまり民主主義です。
古事記にも800万の神々が
相談して事を決したとあります。
日本は真の民主主義の
本家本元だと言えるでしょう。

第三は「主座を保つ」。
古来日本人は常に主座を失わずに
外来のものを消化吸収し、
日本化してきました。
この和、衆知、
主座という三つの柱を守っていくことは、
今後においても大切なのではないでしょうか。

三日の手伝い

「三日の手伝い」という言葉があります。
たとえ三日間の手伝い仕事であっても、
その仕事に一生の仕事のような心構えで
真剣に立ち向うならば、
そこから必ず大きなものを得ることができる、
ということです。
そうしてこそあらゆる場面に直面しても
動じない精神が身につくということでしょう。

そう言うと「本業についたらもちろん
一生懸命に努力する」と
言う人がいるかもしれません。
しかし、私のこれまでの体験から言うと、
現在与えられた、
いまの仕事に打ち込めないような心構えでは、
どこの職場に変わっても、
決していい仕事はできない。
これははっきり申しあげることができると思うのです。

利は元にあり

昔から「利は元にあり」という言葉があります。
これは利益は上手な仕入れから
生まれてくるということだと思います。
まずよい品を仕入れる。
しかもできるだけ有利に適正な値で買う。
そこから利益が生まれてくる。
それを「利は元にあり」と言ったのでしょうが、
実際、仕入れはきわめて大事です。
ところが、
この「利は元にあり」ということを、
ともすれば単に安く買い叩けばよいと
いうように解釈する人があるようです。
しかし、決してそうではなく、
仕入先を、品物を買って下さる
お得意先と同じように
大切にしていくことが肝要だと思います。
そういう気持がないと、
結局は商売は繁昌しないと言えましょう。

大西郷の遺訓

西郷隆盛が次のような遺訓を残している。

「国に功労がある人には禄を与えよ。
功労あるからといって
地位を与えてはならない。
地位を与えるには、
おのずと地位を与えるに
ふさわしい見識がなければならない。
功労があるからといって、
見識のないものに
地位を与えるということは
国家崩御のもととなる」と。

これは国のことであるが、
事業経営についても同じことが言える。
あの人は会社に大きな功労がある、
だから重役にしようとなりがちであるが、
この点は充分に注意しなければいけない。
あくまでも、功労ある人には賞をもって報い、
その見識ある人に地位を
与えることが大事だと思う。

不安に挑む

いつの世でも、
われわれにとって完全に
安穏であるという状態はないといってよい。
お互い人間である以上、
程度の差こそあれ
不安動揺なしにはいられないと思う。
それが人間本来の姿である。
しかしだからといって、ただ不安動揺し、 それにおびえてなすところなく
ウロウロしているというのでは、
そこから何も生まれてこない。

そうではなく、
不安は感じるが、
しかしその不安に敢然と闘いを挑み、
これを打破していく。
むずかしい仕事、
困難な要求に直面して、
一面に不安を感じるが、
反面かえって心が躍る。
そしていろいろの考えを
生みだしこれを克服していく。
そういうふうでありたいと思う。

庄屋と狩人ときつね

昔のたとえ話に
庄屋と狩人ときつねの話がある。
狩人は庄屋の前ではかしこまっている。
しかし庄屋はきつねにばかされる。
きつねには弱い。
そしてきつねは
鉄砲で撃たれるかも
しれないから狩人はこわい。
結局この中で誰が偉いとも
何ともわからない、
という話である。

私は今日でもこの話は生きていると思う。
勝負に勝つ人が偉いのでも、
負ける人が偉くないのでも何でもない。
教育する人が偉いのでもないし、
教育を要する人ができが悪いのでもない。
それぞれやっぱり一つの生きる姿である。
そう考えれば、
喜んで人に協力することができるし、
また協力を受けて仕事ができるのでは
ないかと思うのである。

自分で人事をする

先日、社内で広告担当員を募集したところ、
誰も志願しないというのです。
これは意外でした。
聞くところによると、
そういうことを会社に対して
言いにくいのではないかということでした。
もしそうだとすると、
会社がその人の適性を
見つけなければならないと
いうことになってきます。
が、社員が多くなると、
人事部がいかに懸命であっても、
一人ひとりの性格を知って適切な人事をすることは、
なかなかできないだろうと思うのです。

だからほんとうは、
本人に人事をしてもらうのが一番いいのです。
“私にはこういう適性があるのだ”と
いうことを表現してもらうことが
一面非常に大事だと思います。

ダム経営

ダムというのは、
あらためて言うまでもなく、
河川の水をせきとめ、
たくわえることによって、
季節や天候に左右されることなく、
常に必要な一定量の水を
使えるようにするものである。

そのダムのようなものを、
経営のあらゆる面に持つことによって、
外部の諸情勢の変化があっても
大きな影響を受けることなく、
常に安定的な発展を
遂げていけるようにするのが
“ダム経営”の考え方である。
設備のダム、資金のダム、
人員のダム、在庫のダム、
技術のダム、企画や製品開発のダムなど、
いろいろな面にダム、
言いかえれば、余裕、
ゆとりを持った経営をしていくことが肝要であろう。

魂のこもった朝礼

朝、仕事をはじめる前に
朝礼をする会社や商店が
多いようであるが、
この朝礼をただ惰性で
行ってはいないだろうか。
会社や商店が順調にのび、
世間の評判もよくなる。
銀行も金を貸してくれるし、
事業もたやすくできる。
そうなってくると、
最初全員が真剣であった
朝礼も何となく気がゆるみ、
形だけに終わってしまいがちである。
社員も従業員も
一番注意せねばならないのは
こうした時期ではないかと私は思っている。

だから、朝礼をするならば
魂のこもった朝礼というものを
常に心がけねばならない。
そうでなければ朝礼を行なう価値がない。
形だけなら何にもならないと思うのである。

ほんとうの勇気

私は一般的に、
ほんとうの勇気というものは
一つの正義に立脚しないことには、
また良心に顧みてこれが
正しいと思わないことには、
湧いてこないと思うのです。
だから、勇気が足りないということは、
何が正しいかということの
認識が非常に
あいまいであるところから
出てきている姿ではないかと
いう感じがします。

人びとがそれぞれに
自問自答して
何が正しいかということを考える。
そして、この正しさは絶対譲れない、
この正しさは
通さなければいけないという
確固とした信念を持つならば、
そこから出てくる勇気は、
たとえ気の弱い人であっても
非常に力強いものとなる。
そういうような感じを
私は持っているのです。

感謝の心は幸福の安全弁

感謝の念ということは、
これは人間にとって
非常に大切なものです。
見方によれば、
すべての人間の幸福なり喜びを
生み出す根源とも言えるのが、
感謝の心とも言えるでしょう。
したがって、感謝の心のないところからは、
決して幸福は生まれてこないだろうし、
結局は、人間、不幸になると思います。

感謝の心が高まれば高まるほど、
それに正比例して幸福感が高まっていく。
つまり、幸福の安全弁とも言えるものが
感謝の心とも言えるわけです。
その安全弁を失ってしまったら、
幸福の姿は、
瞬時のうちにこわれ去ってしまうと
言ってもいいほど、
人間にとって感謝の心は
大切なものだと思うのです。

誠意あればこそ

先般、部品の一つに不良のある商品を
お得意さんにお送りしてしまったときに、
その方が厳重に注意しなければ、
ということで会社に
出向いてこられたことがあった。
しかし、実際に会社へ来てみると、
社員の人びとが一心に仕事に
打ち込んでいる姿を見て、
憤慨もせず、
かえって信用を深めて帰られた、
という話を聞いた。

このことから私は、
誠実かつ熱心に日々の仕事に
力強く取り組むということが、
いかに大きな力を
持っているかということを、
つくづく感じさせられた。
そういう態度というものは、
見る人の心に何物かを与えるばかりでなく、
仕事そのものの成果を
より高める原動力にもなると思うのである。

時を待つ心

行き詰まる会社をみてみますと、
たいていは仕事がヒマになったら
ムリをしてでも注文を取ろうとしています。
その結果、かえって大きな損をして
会社の破綻を招くことになってしまうのです。
反対に、「ヒマはヒマで仕方がない。
これは一時的な現象なのだから、
この機会に日ごろ怠りがちだった
お得意に対するサービスをしておこう」とか、
「機械の手入れすべきものはしておこう」と
いうような態度をとっている会社は、
かえって時を得て発展する。
そういう場合が多いように思います。

なかなかむずかしいことですが、
時を得なければ休養して時を待つ、
そういう心境もまた大事だと思うのです。

70点以上の人間に

完全無欠な人間などあり得ないと思う。
だから、お互い人間として、
一つのことに成功することもあろうし、
ときにはあやまちもあるだろう。
それは人間としてやむを得ないというか、
いわば当たり前の姿だと思う。

しかしあやまちと正しいこととを通算して、
正しいことのほうが多くなるような
働きなり生活を持たなければ、
やはり人間として、
望ましい姿とは言えないのではなかろうか。

かりに自分を点数で表わすとどうなるだろう。
30点のマイナス面はあるが、
少なくともプラスの面が70点ある、
というようなところまでには
到達するようお互いに努力したいものである。

大阪城築造の秘訣

豊臣秀吉は、
あの豪壮華麗な大阪城を、
わずか1年半で築造したというが、
どうしてそんなことができたのか
今日なお不思議に思われる。
しかしその大きな原因の一つは、
築造に当たって彼は
「功ある者には莫大な恩賞を与えるぞ」と約束した。
そのかわり「過怠ある者は牢に入れるだけでなく、
容赦なく首を斬ってしまうぞ」と宣言した。
首を斬られてはかなわんから、
みんな必死になって働くが、
その上に莫大な恩賞が約束されているから、
より一層はげみがつく。
そこにあの大阪城築造の秘訣があったとも言えよう。
“信賞必罰”は、昔も今も、
人間の存在する限り必要なものであり、
永遠の真理を喝破した貴重な教えではなかろうか。

道徳は「水」と同じ

戦後のわが国では
「道徳教育」というと
何か片寄ったふうに思われることが多いが、
私は道徳教育は、
いわば「水」と同じではないかと思う。
人間は生きるためにどうしても「水」が必要である。
ところがこの水に何か不純物が混じっていて、
それを飲んだ人が病気になった。
だからといって水を飲むことを
一切拒否してしまったらどうなるか。
大切なことは「水」そのものの価値、
効用を否定してしまうことではない。
水の中の不純物を取り除くことである。

かつての道徳教育の中に
誤ったところがあったからといって、
道徳教育そのものを
否定してしまうことは、
それこそ真実を知らぬことではないか。

努力を評価しあう

販売に当たる人が、
一つの商品について技術、
製造の人の開発の苦心を思い、
逆に技術、製造にたずさわる人は、
販売する人の努力に感謝し、
心をこめて製品をつくりあげる。
また経理の人は1円のお金にも、
それが利益となって生まれてくるまでの技術、
購買、製造、販売、
その他すべての部門の
人の汗の結晶というものを考え、
それを最大限に生かしてゆく。

というように、
お互いの一つ一つの懸命な努力を、
いわば目頭を熱くするような思いで理解し、
それを生かしあってゆく。
そして、そこに生まれた成果をお互いに喜びあっていく。
そういうものがあってはじめて全体の発展も
生まれてくるのではないだろうか。

人事を尽して天命を待つ

「人事を尽して天命を待つ」ということわざがある。
これは全く至言で、私はいまも自分に時どきその言葉を言い聞かせている。
日常いろいろめんどうな問題が起きる。
だから迷いも起きるし、悲観もする。
仕事にも力が入らないことがある。
これは人間である以上避けられない。
しかしそのとき私は、自分は是と信じてやっているのだから、あとは天命を待とう、
成果は人に決めてもらおう……こういう考え方でやっている。

小さな人間の知恵でいくら考えてみても、どうにもならぬ問題がたくさんありすぎる。
だから迷うのは当たり前である。
そこに私は一つの諦観が必要だと思うのである。

公憤を持つ

指導者たる者、いたずらに私の感情で腹を立てるということは好ましくない。
しかし指導者としての公の立場において、何が正しいかを考えた上で、
これは許せないということに対しては大いなる怒りを持たなくてはいけない。

だから、一国の首相は首相としての怒りを持たなくてはならないし、
会社の社長は社長としての怒りを持たなくては、ほんとうに力強い経営はできないと言ってもいい。
まして昨今のように日本といわず世界といわず、難局に直面し、
むずかしい問題が山積している折には、指導者はすべからく私情にかられず、
公のための怒りをもって事にあたることが肝要であると思う。

最善の上にも最善がある

会社としては、常に何事も最善と思ってやっているし、
みなさんもそれに基づいて最大の努力を払っていると思います。
しかし、立場をかえて、お客様の側からいうと、まだまだこう考えてほしい、
こうあってほしいという希望が出るのも、また当然だと思います。

そういうことを考えてみると、ものには最善の上にさらに最善がある、
限りなく上には上がある。
それを一段一段、そういう訴えを聞くたびに素直にそれを聞いて、
検討するということが永遠に必要ではないかと思うのです。
そういう意見をよく汲み上げて、改める点があれば改める、
というようにすることが必要だと思います。

日本式民主主義を

民主主義の基本理念というものは、まことに好ましいものであり、
これを取り入れ国家国民の調和ある発展繁栄をはかっていくことは、
きわめて重要なことだと言えます。
けれども、それは日本の伝統、国民性というものに立って行なわなくてはなりません。
基本の理念は同じでも、具体的な形体は、それぞれの国民性にしたがって、
さまざまでなくてはならない。
いわば、アメリカにはアメリカ式民主主義、フランスにはフランス式民主主義、
日本には日本式民主主義がなくてはならないと思うのです。
それを日本みずからの伝統を忘れて、アメリカやフランスのようにやろうとしても、
根なし草の民主主義に終わってしまうでしょう。

健康法はなくても・・・・・・

私は若い頃から病弱であったが、
戦中戦後の無我夢中で働かざるを得ない時期を経て健康体になり、
いまもまだ元気でいられる。
健康法と言えるものは何もないといっていい私にとって、
これは考えてみればまことにありがたいことだし、
ほんとうに不思議なものだと思う。

しかし、これまでの歩みを振り返ってみると、私は、一つの仕事が成就すると、
またすぐ次の仕事をと、たえず目標を持って努めてきた。
いま静かに思うと、その繰り返しの中に張り合いがあり、
そこにいわば死ぬに死ねないとでもいうか、一種の緊張感がみなぎっていた。
そこに生きる張り合いを感じ、毎日を過ごしてきたように思うのである。

最高責任者の孤独

組織の最高責任者の立場に立つと、部下はもちろん、
それまで同僚として一緒に働いてきた人びとの自分に対する見方が変わってきます。
自分は変わらなくとも、周りでは見方が変わり、ほんとうのことを言ってくれる親友というものは、
地位が上になればなるほど少なくなるというのが現実ではないでしょうか。

そういう意味で、最高責任者は好むと好まざるとにかかわらず、
心の上にいろいろなさびしさが出てきて、いわば孤独な立場になるということが言えます。

だからこそ、いわゆる声なき声というものに耳を傾ける謙虚さというものが、
トップに立つ者にとってはきわめて大切だと思うのです。

自己観照

自省の強い人は、自分というものをよく知っている。
つまり、自分で自分をよく見つめているのである。
私はこれを“自己観照”と呼んでいるけれども、自分の心を一ぺん自分の身体から取り出して、
外からもう一度自分というものを見直してみる。
これができる人には、自分というものが素直に私心なく理解できるわけである。

こういう人には、あやまちが非常に少ない。
自分にどれほどの力があるか、自分はどれほどのことができるか、
自分の適性は何か、自分の欠点はどうしたところにあるのか、
というようなことが、ごく自然に、何ものにもとらわれることなく見出されてくると思うからである。

顔も商品

私はいままであまり容貌に注意せず、ゾンザイな点が多かった。
ところがたまたま銀座のある有名な理髪店に行ったところ、
そこのお店の人から次のように言われたことがあった。

「あなたは自分で自分の顔を粗末にしているが、これは商品を汚くしているのと同じだ。
会社を代表するあなたがこんなことでは、会社の商品も売れません。
散髪のためだけでも、東京に出てくるというような心がけでなければ、とても大を成さない」

まことにもっとも千万で、至言なる哉と大いに感心し、
それ以来、多少容貌に意を用いるようにもなった。
私はその人から貴重な当世哲学を教えられたのである。

一人の力が伸びずして……

自分は1年にどれだけ伸びているか、技術の上に、あるいは社会に対する物の考え方の上に、
どれだけの成長があったか、その成長の度合をはかる機械があれば、これは簡単にわかります。
しかし、一人ひとりの活動能力というか、知恵才覚というか、
そういう総合の力が伸びているかどうかをはかる機械はありません。
けれども、私は5%なり10%、あるいは15%伸びた、
と自分で言えるようでないといけないと思います。
やはり一人ひとりが、自分の力でどれだけのことをしているかということを反省してみることが大切です。

一人ひとりの力が伸びずに社会全体の力が伸びるということはないと思うのです。

部下の提案を喜ぶ

従業員の人びとが喜んで仕事をする姿をつくるには、
上司なり先輩が、部下なり後輩の提案を喜んで受け入れるということが大切だと思います。
それがいますぐには実際に用いることができないような提案であったとしても、
その行為なり熱意なりは十分に受け入れる。
つまり、発案をすればするほど上司が喜ぶという雰囲気が非常に大事だと思うのです。

部下の提案に対して、「いや君だめだ」と言う。また来る。
「ああ君、これもだめだ」と言うようなことでは、
「提案してもムダだ、やめておこう」ということになり、
決まった仕事しかしなくなってしまうでしょう。
それでは、進歩も向上も生まれてこないのです。

国を愛する

わが国は戦後、相当立派な成長発展を遂げてきましたが、
不思議に愛国心という言葉がお互いの口から出ません。
ときたま出ても、あまり歓迎されない状態です。
愛国心というものは、国を愛するあまりに他の国と戦いをすることになるという人もあります。
しかし決してそうではないと思います。
国を愛すれば愛するほど、隣人と仲よくしていこう、友好を結んでいこう、ということになるだろうと思うのです。
お互いが自分を愛するように国を愛し、隣人を愛す、そうすることによってそこに自分の幸せも築かれていくと思うのです。
そのような姿をお互いに盛りあげていくことが、国民としての大きな使命ではないでしょうか。

同行二人

弘法大師さんが開かれた高野山にある霊場に詣でる人びとの菅笠には、みな一様に “同行二人”とかいてある。
どこにいようと、どこに行こうと、自分は一人ぼっちではない、いつもお大師さまと二人という意味である。

つまり、これら信仰三昧の人びとの心の中には、
いまもなお大師は生き生きと存在しておられるのである。

もちろん、大師の生身の身体が、そのままここにあるというわけではない。
しかし、大師はいまもなおここにおわすと感じること、また感じようとつとめるところに、
大師の教えが永遠に生きてくることになる。
真理は永遠に生きるというのは、こんな姿を言うのであろうか。

一歩一歩の尊さ

仕事はいくらでもある。
あれも作りたい。
これもこしらえたい、こんなものがあれば便利だ、あんなものもできるだろう、と次から次へと考える。
そのためには人が欲しい、資金が欲しいと願うことには際限がないが、
一歩一歩進むよりほかに到達する道があろうか。
それは絶対にない。
やはり、一歩一歩のつながり以外に道はない。
坦々たる大道を一歩一歩歩んでゆけばそれでよい。
策略も政略も何もいらない。
一を二とし、二を三として一歩一歩進んでゆけばついには彼岸に到達するだろう。
欲しいと願う人も一人増え、また一人増えてついには万と数えられよう。
一歩一歩の尊さをしみじみ味わわねばならぬ。

魂を加えた価格

価格というものは、サービスとか配達とかいろいろな便宜だとか、
そういうものを総合した価値判断によって決めるべきで、
単によそがいくらだからウチはいくらにするというようなことでは、
ほんとうの商売はできないと思います。

たとえば、よそで1万円のものを、場合によっては1万500円で売ります。
するとお客さんが“なぜよそより高いのか”と聞かれます。
そのときに“同じ製品ですが、
私の方はお添え物があるのです”“何を添えてくれるのか”“私どもの魂を添えるのです”と申し上げることができるかどうか。
そのように、お店の魂をプラスして価格を決定することがお互いの商売には必要だと思うのですが、
いかがでしょうか。

平穏無事な日の体験

体験というものは、失敗なり成功なり何か事があったときだけに得られる、というものでしょうか。
決してそうではないと思います。
平穏無事の一日が終わったとき、自分がきょう一日やったことは、
果たして成功だったか失敗だったかを心して考えてみると、あれはちょっと失敗だったな、
もっといい方法があったのではないか、というようなことが必ずあると思います。
それについて思いをめぐらせば、これはもう立派な体験と言えるのではないでしょうか。

形の上での体験だけでなく、日々お互いがくりかえしている目にみえないささいなことも、
みずからの体験として刻々に積み重ねていく姿勢が大切だと思うのです。

正しい国家意識を

昨今の国際情勢は、一方で“世界は一つ”と言いつつも、その一方で各国が過度の国家意識に立ち、
自国の利害を優先してしまうため、対立や紛争が一向に絶えない。

それでは日本はどうかというと、反対に国家意識がきわめて薄いため、かえって問題が起こっているようである。
個人でも正しい自己意識、人生観を生み出し、自主性を持って生きていってこそ、
そこにはじめて他の人びとに対しても、おごらず、へつらわず、仲よくつき合っていけるわけである。
国でも同じである。
国民が正しい国家意識を持ち、他の国ぐにと交流していくことが大切であろう。
“過ぎたる”もいけないが、“及ばざる”もいけない。

喜ばれる仕事

仕事というものは、人びとに喜びを与え、世の向上、発展を約束するものだと考えれば、
勇気凛々として進めることができると思います。

たとえば、麻雀の道具をつくっている会社の人が、麻雀をするのはよくないことだ、と思っていたら、
その会社の経営はうまくいかないでしょう。
昼のあいだ一生懸命働いている人にとって、晩にする1時間の麻雀は気分転換になり、
喜びになるだろう、その喜びのためにわれわれは麻雀の道具をつくって売っているのだと思ってこそ、
堂々とその仕事をやっていけるわけです。
そしてその上に、一人ひとりが喜びをもって仕事を進めていけば、会社は自然に成功するはずだと思います。

企業は社会の公器

一般に、企業の目的は利益の追求にあると言われる。
たしかに利益は健全な事業経営を行なう上で欠かすことができない。
しかし、それ自体が究極の目的かというと、そうではない。
根本はその事業を通じて共同生活の向上をはかることであって、
その根本の使命を遂行していく上で利益が大切になってくるのである。

そういう意味で、事業経営は本質的には私の事ではなく、
公事であり、企業は社会の公器なのである。
だから、たとえ個人の企業であろうと、私の立場で考えるのでなく、
常に共同生活にプラスになるかマイナスになるかという観点からものを考え、
判断しなければならないと思うのである。

人間道に立つ

われわれ人間は、相寄って共同生活を送っています。
その共同生活をうまく運ぶには、どうすればよいのか。
みんなが生かされる道を探さねばなりません。

お釈迦さまは「縁なき衆生は度し難し」と言っておられます。
しかし、なろうことならそうした諦観を超え、お互いを“有縁”の輪で結びあわせることができないものかと思います。
そのためには、お互いのあるがままの姿を認めつつ、全体として調和、
共栄していくことを考えていかなければなりません。
それが人間としての道、すなわち“人間道”というものです。
お互いに“人間道”に立った生成発展の大道を、衆知を集めて力強く歩みたいものです。

まず好きになる

「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますが、これは商売についてもあてはまります。
商売を繁栄させたいと思えば、まず商売にみずから興味を持ち、好きになることです。
好きになれば努力することが苦にならない。
むしろ楽しくなる。
そしてただお義理や飯のタネにするために事を運ぶというのではなく、誠心誠意それに打ち込む。
そこにこそ繁栄への一つの道があると思います。

適材適所ということが言われますが、私は、適材適所とはそうした商売の好きな人が商売に当たるということであって、
そうなれば千人が千人とも望みを達することも決して難事ではないと思うのです。

天は一物を与える

この世に100パーセントの不幸というものはない。
50パーセントの不幸はあるけれども、反面そこに50パーセントの幸せがあるわけだ。
人間はそれに気がつかなければいけない。
とかく人間の感情というものは、うまくいけば有頂天になるが、悪くなったら悲観する。
これは人間の一つの弱い面だが、それをなるべく少なくして、いつの場合でもたんたんとやる。
信念を持っていつも希望を失わないでやることだ。

「天は二物を与えず」と言うが、逆に「なるほど、天は二物を与えないが、
しかし一物は与えてくれる」ということが言えると思う。
その与えられた一つのものを、大事にして育て上げることである。

千の悩みも

経営者には、
一度にいくつもの問題に直面して、あれこれ思い悩むという場合が少なくありません。
しかし私はいままでの経験で、人間というものはそういくつもの悩みを同時に悩めるものではないということに気づきました。
結局、一番大きな悩みに取り組むことによって、他の悩みは第二、第三のものになってしまうのです。
だから、百の悩み、千の悩みがあっても、結局は一つだけ悩めばよい。
一つだけはどうしても払うことができないが、それと取り組んでいくところに、人生の生きがいがあるのではないか。
そう考えて勇気を持って取り組めば、そこに生きる道が洋々と開けてくると思うのです。

自分を飾らず

私は、毎日の生活を営んでゆく上において、
自分をよく見せようとお上手を言ってみたり、言動にいろいろと粉飾することは大いに慎みたいと思います。
これは一見、簡単なことのようですが、口で言うほどたやすいことではありません。
ことに出世欲にかられる人は、自分を他人以上に見せようとする傾向が強いようです。

しかし、人はおのおのその素質が違うのですから、いくら智恵をしぼって自分を粉飾してみたところで、
自分の生地はごまかすことはできず、必ずはげてきます。
そして、そうすれば、そのときには一ぺんに信用を落とすことになってしまうのです。
私は、正直にすることが処世の一番安全な道だと思います。

先憂後楽

「先憂後楽」ということは、天下の人びとに先んじて憂い、天下の人びとに後れて楽しむという、
為政者の心構えを言った昔の中国の人の言葉だそうである。
しかし私は、この先憂後楽ということは、単に為政者だけでなく、
お互い企業の経営者としても、ぜひとも心がけなくてはならない大切なことだと考えている。
もちろん経営者とて、ときに休養し、遊ぶこともあるが、
そのようなときでも全く遊びに心を許してしまわず、
心は常に先憂ということでなくてはならない。
それは言いかえれば、人よりも先に考え、発意、発想することだとも言える。
経営者というものはたえず何かを発想していなくてはいけないと思うのである。

衣食足りて礼節を知る

「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。
これは今から二千年以上も昔の中国で言われたものだというが、
今日なお広く使われているということは、そこに人間としての一つの真理があるからのように思える。

ところが、今日のわが国については、
「衣食足りて礼節を知る」どころか「衣食足りて礼節ますます乱る」と言わざるをえないことが多い。
これはまさに異常な姿である。
われわれはいま、この世の中を正常な姿に戻して社会の繁栄、人びとの幸福を生みだしていく必要がある。
そのためには、まず自己中心のものの考え方、行動をみずから反省し、戒めあっていくことが肝要だと思う。

過当競争は罪悪

お互いに適正な競争はやりつつも、過当競争はいわば罪悪として、これを排除しなくてはなりません。
特に資本力の大きな大企業、業界のリーダー的な企業ほど、そのことを自戒しなくてはいけない。
小さな企業が少々過当競争的なことをしても、リーダー的な企業が毅然として正しい競争に徹したならば、
業界はそう混乱しないでしょう。
しかし、もしリーダー的な企業が率先して過当競争を始めたのでは、
あたかも世界大戦のごとき大混乱をもたらして業界をいちじるいく疲弊させ、
その信用を大きく失墜させることにもなります。
企業が大きければ大きいほど、業界の健全な発展に対する責任もまた大きいと言えましょう。

短所四分、長所六分

人間というものは、誰でも長所と短所を持っている。
だから、大勢の人を擁して仕事をしているのであれば、それぞれに多種多様な長所と短所が見られる。

その場合、部下の短所ばかりを見たのでは、なかなか思い切って使えないし、部下にしても面白くない。
その点、長所を見ると、その長所に従って生かし方が考えられ、ある程度大胆に使える。
部下も自分の長所が認めてもらえれば嬉しいし、知らず識らず一生懸命に働く。
しかし、もちろん長所ばかりを見て、短所を全く見ないということではいけない。
私は短所四分、長所六分ぐらいに見るのがよいのではないかと思うのである。

融通無碍の信念

「融通無碍」という言葉がある。
これは別にむずかしい理屈でも何でもない。
いたって平凡なことと思う。
もし道を歩いていて、その前に大きな石が落ちてきて向うへ行けない場合はどうするか。
もちろん石によじ登ってもまっすぐ行くということも一つの方法である。
しかしそこに無理が生じるのであれば、石をよけてまわり道をしてゆく。
それが融通無碍だと思う。

もちろんときにはまわり道のない場合もある。
しかしそういうときにはまた別の方法を考える。
素直に、自分の感情にとらわれないで、この融通無碍ということをたえず心がけていくところに、
世に処していく一つの道があると思うのである。

会社の信用

自分の会社の欠点と考えられることは、社内においてお互いに誠心誠意検討しあい、
その欠点を除くことにみなが努力をすることが大事だと思います。
しかし、それを決して外部の人に不用意にもらさないという配慮が必要です。
極端に言うと、両親にさえもらしてはいけないのだというほどの信念がなければいけないと思います。

もしも幸いにして、そういうことをみなが諒として働けば、
そうした行動から非常に強い会社の信用が生まれてくると思います。
それは会社に幸いし、会社の従業員全体に幸いし、
ひいては会社の持つ使命を遂行する力となってくると思うのです。

物をつくる前に人をつくる

私は、ずっと以前でしたが、当時の年若き社員に、
得意先から「松下電器は何をつくるところか」と尋ねられたならば「松下電器は人をつくるところでございます。
あわせて電気商品をつくっております」とこういうことを申せと言ったことがあります。

その当時、私は事業は人にあり、人をまず養成しなければならない、
人間として成長しない人を持つ事業は成功するものではない、
ということを感じており、ついそういう言葉が出たわけですが、
そういう空気は当時の社員に浸透し、それが技術、資力、信用の貧弱さにもかかわらず、
どこよりも会社を力強く進展させる大きな原動力となったと思うのです。

長年のツケを払うとき

戦後三十年間、政治の仕組み、教育のあり方、またお互いのものの考え方、生活態度の中に、
知らず識らず、いろいろなムダや非能率が生まれ、増大してきた。
それがつもりつもって物価をジリジリと押しあげ、とうとう今日の事態を招来したのである。

お互いに考えるべきことを考えず、改善するべきことを改善してこなかった、
長年のたまりたまったツケがまわってきたのである。
だれが悪い、かれが悪いと責めあっているときではない。
そのツケはそれぞれの分に応じて払わなくてはならない。
その覚悟を真剣に持つことができるかどうか。
そこがきわめて大切な点だと思うのである。

苦情から縁がむすばれる

需要家の方からいただくおほめの手紙はもちろんありがたいけれども、
苦情の手紙をいただくのもありがたいことだと思います。
かりに苦情を言わない方はそのまま「あそこの製品はもう買わない」ということで終わってしまうかもしれません。
しかし不満を言ってくださる方は、そのときは「もう買わない」というつもりでも、
こちらがその不満を丁寧に扱って、不満の原因をつかむとともに、
誠心誠意対処すれば、その誠意が通じ、かえって縁がむすばれる場合が多いと思います。

ですから、苦情を受けたときは「縁がむすばれる好機」と考え、
一つの機会として生かしていくことが大事だと思うのです。

人情の機微を知る

人間の心というものは、なかなか理屈では割り切れない。
理論的にはこうしたらいい、と考えられても、人心はむしろその反対に動くということもあろう。
一面まことに厄介といえば厄介だが、しかし、やはりある種の方向というか、法則的なものがあるとも考えられる。
そうしたものを、ある程度体得できるということが、人情の機微を知るということになるのだと思う。

では、人情の機微を知るにはどうしたらいいか。
それはやはり、いろいろな体験を通じて、多くの人びととふれあうことである。
そうした体験に立ちつつ、常に素直な目で人間というものを見、その心の動きを知るということが大切だと思う。

水道の水のように……

加工された水道の水は価値がある。
今日、価あるものを盗めばとがめられるのが常識だが、
通行人が門口の水道の栓をひねって存分に飲んだとしても、とがめたという話はきかない。
直接、生命を維持する貴重な価値ある水でさえ、
その量があまりに豊富であるゆえに許されるということは、われわれに何を教えるか。

それは、すなわち生産者の使命は貴重なる生活物資を、
水道の水の如く無尽蔵たらしめることである。
いかに貴重なるものでも、量を多くして無代に等しい価値をもって提供することにある。

われわれの経営の真の使命はまさにここにあると思うのである。

決意を持ち続ける

指導者にとって大事なことの一つは、志を持つということである。
何らかの志、決意というものがあってはじめて、事は成るのである。
だから志を立て決意をするということが必要なわけだが、
それは一度志を立て、決心すればそれでいいというものではない。
むしろ大事なのは、そうした志なり決意を持ち続けることであろう。
そのためには、やはり、たえずみずからを刺激し、思いを新たにするようにしなくてはならない。

一度志を立て、決意することによって、非常に偉大なことを成し遂げられるのも人間であるが、
その志、
決心をなかなか貫き通せない弱さをあわせて持つのも、これまた人間である。

武士道と信頼感

昔、武士は庶民の上に置かれ、尊敬されていた。
これは一つには、武士が武力を持っていたからとも考えられるが、それだけではない。
やはり武士は道義に厚く、武士としての精神を忘れず、いわゆる武士道に徹することにより、
庶民の信頼と尊敬をかち得ていたものと思う。

これは会社の中でも言える。
経営者には経営者道、従業員にはいわば従業員道ともいうべきものがあると思う。
それぞれ当然やるべきことがある。
これをお互いに責任を持って貫いてゆくというところに、信頼関係の基礎があり、
その信頼関係を高めてゆく推進力があるのではないだろうか。
まずお互いの立場で、それぞれの道に徹したい。

青春とは心の若さ

“青春とは心の若さである。
信念と希望にあふれ、勇気にみちて日に新たな活動をつづけるかぎり、
青春は永遠にその人のものである”

これは私があるヒントを得て座右の銘としてつくった言葉である。
当然ながら、人はみな毎年歳をとってゆく。
それはいわば自然の掟である。
しかし私は、精神的には、何歳になろうとも青春時代と同じように日々新たな気持を持ち続けることができるはずだと思う。
その精神面での若さを失いたくないというのが、かねてからの私の強い願いなのである。
特に最近は、心は絶対に老いさせないということが、
個人的にも、また周囲の環境からも要請されていることを強く感じている。

不景気またよし

好景気は結構だが、不景気は感心しないという。
たしかに、その時点時点で見るとそうであろう。

けれども、そういう一コマ一コマであっても全体について見たら、
不景気の過程もまた偉大なる生成発展の一つであるとも考えられる。

不景気のときには苦しく困難ではあるが、不景気なるがゆえにはじめて得られるものがある。
不景気になったために知らなかったことを知った、ある悟りを開いたということがある。
それによって次の手が打てる。
だから不景気のときには、伸びているところも少なくない。
そういう見方をするならば、不景気もまた結構ということになると思うのである。

枠にとらわれず

私たちは仕事を進めていく際に、ともすれば自分で自分の枠を決めてしまってはいないか。

たとえば、ラジオのデザインにしても、元来、デザインは固定したものでないのだから、
三角でも円でもよいはずなのに、ほとんど箱型である。
このことに限らず、不思議なことに人間は自ら枠をつくり、その中に入ってしまうという悪い傾向がある。
これも自己を保有する一つの行き方かもしれないが、窮屈な枠の中で窮屈なものの考え方をしていては、
心の働きも鈍くなり、自由自在なよい智恵が出てくるものではない。
ものにはいろいろな見方がある。
時と場合に応じて自在に変えねばならない。
そこにこそ発展が生まれるのである。

人生を設計する

毎日、なにがなしに仕事をしている、ということでは困ると思います。
何でもいい、何か1つの目的を持つ。
そういうものを日々持ってそして同時に、1カ月先、あるいは1年なら1年の間には、こういうことをやってみるのだ、
という1つの自己設計とでもいうものを持つことが大切だと思います。

そして、それはうまくいく場合もありますし、うまくいかない場合もあります。
しかし、これはもう仕方がありません。
仕方がないけれども、そういうものを持っているということ、次つぎに生んでいくということ、
それが、私は生きがいというものにつながっていくと言ってもいいと思うのです。

日本のよさを知る

私は日本ほど恵まれた国はないと思うのです。
1億という人口があって、しかも1 民族であり1言語である。
気候、風土も非常に好ましい状態に置かれている。
こういう国を擁して偉大なる発展をしないというのはどうかしています。
素直に考えてやっていけば、次つぎとこの国を生かしていく道ができてくると思うのです。

そのためにはまず自分の国というものをよく知らなければいけない。
われわれは日本を、日本人というものを知らなくてはならない。
むろん何もかもよいというのではありません。
欠点は欠点で、これは当然直さなければいけませんが、それを差し引いても、
まだ余分にいいところがだいぶ残ると思うのです。

社会にやらせてもらう

お互いの仕事なり職業というのは、それぞれに自分の意志で選び、自分の力でやっているようではあるが、
本来は社会がそれを必要としているからこそ成り立つものである。
つまり、自分がやっているのではなく、社会にやらせてもらっているのだということが言えると思う。
床屋の仕事でも、髪をキチンとしたいという人びとの要望があって、はじめてそれが必要とされるのである。
このことは、どんな仕事についても同じである。

そういうことを考えてみると、そういう仕事を世間からやらせてもらえるのは、
ほんとうにありがたいことだという感謝の念も生じてくると思うのである。

雨が降れば傘をさす

経営者たるものは、すべて天地自然の理法に基づいて行動しなければならない。
これは何もむずかしいことを言っているのではない。
たとえば雨が降ったら傘をさすということである。

つまり集金をせねばならぬところには集金に行く、売れないときには無理に売ろうとせずに休む、
また売れるようになれば作る、というように大勢に順応するということである。

集金すべきところから集金もせずに、新たに資金を借りようとする人があるようだが、
金を借りるのならば、まず集金に全力を尽す。
それでもなお資金がいるときにはじめて借りる、という至極簡単な当たり前のことを、
どれだけ的確に行なうかが非常に大事なのである。

祈る思い

みずから何もせずしてただ神仏にご利益を願うというようなことは、人間としてとるべき態度ではないと思う。
また、そんな都合のよいご利益というものはあり得ないだろう。

しかし人間がほんとうに真剣に何かに取り組み、ぜひとも成功させたい、
させねばならないと思うとき、そこにおのずと何ものかに祈るというような気持が湧き起こってくるのではないか。
それは神仏に祈念するというかたちをとる場合もあろうし、
自分なりにそれに準ずるものを設定して願うという場合もあろう。
そういうことは一つの真剣さの現われであり、またみずからの決意を高めるという意味からも、大いにあっていいことだと思う。

熱意は磁石

いかに才能があっても、知識があっても、熱意の乏しい人は画ける餅に等しいのです。
反対に、少々知識が乏しく、才能に乏しい点があっても、
一生懸命というか、強い熱意があれば、そこから次つぎとものが生まれてきます。
その人自身が生まなくても、その姿を見て思わぬ援助、
目に見えない加勢というものが自然に生まれてきます。
それが才能の乏しさを補い、知識の乏しさを補って、
その人をして仕事を進行せしめる、全うさせる、ということになるわけです。

あたかも磁石が周囲の鉄粉を引きつけるように、熱心さは周囲の人を引きつけ、
周囲の情勢も大きく動かしていくと思うのです。

素直な心とは

素直な心とはどういう心であるのかといいますと、それは単に人にさからわず、従順であるというようなことだけではありません。
むしろ本当の意味の素直さというものは、力強く、積極的な内容を持つものだと思います。

つまり、素直な心とは、私心なくくもりのない心というか、一つのことにとらわれずに、
物事をあるがままに見ようとする心といえるでしょう。
そういう心からは、物事の実相をつかむ力も生まれてくるのではないかと思うのです。

だから、素直な心というものは、真理をつかむ働きのある心だと思います。
物事の真実を見きわめて、それに適応していく心だと思うのです。

先見性を養う

先見性を持つことは指導者にとってきわめて大切なことだ。
先見性を持てない人は指導者としての資格がないといってもいいほどである。
時代というものは刻々と移り変わっていく。
きのう是とされたことも、きょうは時代遅れだということも少なくない。

だから、その時代の移りゆく方向を見きわめ、変わっていく姿を予見しつつ、
それに対応する手を打っていくことによって、はじめて国家の安泰もあり、企業の発展もある。

一つの事態に直面して、あわててそれに対する方策を考えるというようなことでは、物事は決してうまくいかない。
心して先見性を養いたいものである。

はじめに言葉あり

「はじめに言葉あり」という言葉がある。
聖書の中にあるそうで、私はその深い意味はよく知らないが、これは経営にもあてはまることではないかと思う。

つまり、経営者、指導者の人はまずはじめに言葉を持たなくてはならない。
言いかえれば、一つの発想をし、目標をみなに示すということである。
あとの具体的なことは、それぞれ担当の部署なり社員なりに考えてもらえばいい。
しかし、最初に発想し、それを言葉にすることは、経営者がみずからやらなくてはいけないと思う。

そしてそれは、企業経営だけでなく、日本の国全体としても望まれることであろう。

不確実な時代はない

不確実性の時代と人はよく言います。
事実、思わぬことが次つぎと起こって混乱することがよくありますが、私は不確実性ということは肯定しません。
なぜなら、不確実な現象は全部人間自身の活動の所産であり、
人間自身が不確実な考えを持ち、不確実な行動をするところに起こってくるものだと思うからです。

だから、不確実な考えや行動をやめたら、確実になってくる。
そういう自覚で仕事をすることが大切だと思います。

未来は“確実性の時代”だという発想の転換、未来に対処する基本的姿勢の転換こそ、
今日、私たちお互いの緊急重要事ではないかと思うのです。

信念は偉大なことを成し遂げる

私は、弘法大師の開かれた高野山にのぼって、非常に教えられたことがあります。
いまでこそ自動車道路も電車もケーブルもできていて、
便利といえば便利ですが、お山を開かれた千百数十年前に、
あれだけへんぴなところを開拓し、そこに道場をたてるという弘法大師のご執念というか、
信念というものは、想像もできないほど強いものがあったと思うのです。
われわれはなかなか弘法大師さんの境地にふれることはできません。
けれども、私はそのとき、やはり人の心、
一念、信念というものは偉大なことを成し遂げるものだということを痛切に感じて、
私も自分の分に応じた一念、信念を持たなければいけないなと感じたのです。

心あらたまる正月

竹にフシがなければ、ズンベラボーで、とりとめがなくて、風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。
竹にはやはりフシがいるのである。
同様に、流れる歳月にもやはりフシがいる。
ともすれば、とりとめもなく過ぎていきがちな日々である。
せめて年に一回はフシをつくって、身辺を整理し、長い人生に耐える力を養いたい。

そういう意味では、お正月は意義深くて、おめでたくて、心もあらたまる。
常日ごろ考えられないことも考えたい。
無沙汰のお詫びもしてみたい。
そして、新たな勇気と希望も生み出したい。
すがすがしくて、さわやかで、お正月はいいものである。

総決算

12月は総決算の月。このときに当たり、1年の歩みをふり返り、お互いの心のケジメもつけたいものです。
この1年、よかったことはよかった、悪かったことは悪かったと、素直に自分で採点しなければなりません。

そしてこの1年は、決して自分ひとりの力で歩んだものではありません。
自分で気づかないところで、人びとの協力を得、また思わぬところで迷惑をかけていることもあると思うのです。
そんな周囲の人びとの協力に対しては、ありがたく感謝し、迷惑をかけたことに対しては謙虚に謝罪したいと思います。
そうした素直な自己反省こそ、次の新しい年の自分の成長にプラスする何かを、必ず与えてくれると思うのです。

静思の時

何事も合理的でスピーディなものが尊ばれる昨今、それがスピーディであればあるほど、
一方で静思の時というか、ゆったりしたものがほしくなる、
これが人情というか、人間の本能的とも言える一つの姿でしょう。
だから、これを押さえることは人間の身体や生活を、とんでもなくゆがんだものにしかねないと思います。

ですから、夜やすむ前、床の上に坐って静かに一日を反省する。
やり方はどうあれ、そういう時を持って、一日のケジメをきちんとつけてこそはじめて、
そこに安らぎが生まれ、明日への新たな意欲が湧いてくるのではないか。
世の中が騒々しくなるほど、そういう静思の時が必要になると思うのです。

理想ある政治を

政治には理想が大事です。
日本をこうするんだという1本筋が通ったものがなければいけない。
そういうものがいまは見られません。
その場を適当におさめてやっている、そういう状態です。

いまだ日本が世界で2、30番目ということであるなら、
追いつけ追いこせということで目標もできてきますが、
すでに世界で1、2位を争うようになっている以上、
そこにより高い目標、理想を打ち出す必要があると思います。
たとえ世界で1番ということになったとしても、
日本にはもっと大きな役割があるんだからということで、
より高い理想を持ち、力強い政治を行なっていくことが必要だと思うのです。

ケジメをつける

お互い人間にとって、責任を明らかにするというか、ケジメをつけることの大切さは、
昔からよく言われてきていることだが、これは今日でも変わらないと思う。
もちろん、それぞれに会社の社風や仕事の内容が違うから、その会社の独自のやり方があるであろう。
しかし、お互いに自分自身の成長のためにも、また自分の会社がさらに飛躍し、
社会に貢献してゆくためにも、ケジメをつけるという断固としたものを、一面において持たなければならないと思う。

いま一度、それぞれの立場でわが身を振り返り、事をアイマイに過ごしていないかどうか、
改めて確かめてみることが大事ではないだろうか。

投げやらない

成功する会社と成功しない会社の差というものは、私は紙一重だと思います。

たとえば、今後、価格の競争が激しくなってくれば、
われわれの製品のコストを10%引き下げるということを、当然やらなければなりません。
もし下がらなければ、なぜ下がらないかということに対して、内外の衆知を集めなければならないのです。
それを、自分の知恵の範囲で、会社の知恵の範囲でいろいろ考えて、
これは無理だ、できないと言って投げやってしまえば、これは絶対にできないわけです。
どうしてもやっていくんだというところに、一つの成功の糸口がだんだんとほどけてきて、
必ずその成果が上がると思うのです。

うまくて、早くて、親切

私がでっち奉公をしていたころ、楽しみの一つはうどんを食べることだった。
その当時は、子ども心にも「あのお店のうどんはおいしいし、
すうどん一杯のお客でも大切にしてくれる」と感じ、
ある一軒の店ばかりに通ったものである。
そのうどん屋は、うまくて、親切で、そして早く作ってくれた。

現代における商売、企業のコツもこのうどん屋さんのやっていたことと何一つ変わらない。
りっぱな商品を早くお届けし、親切丁寧に使用法を説明する--こうした心がけで商売をするならば、
私は必ずそのお店は成功すると思う。
またそういうお店が成功しなかったら不思議である。

経営者次第

昔の日本の言葉に「頭がまわらなければ尾もまわらない」というのがあるが、
私は、経営者が100人なら100人の人を緊張させて、大いに成果を上げようと思えば、その人の活動が、
端の人がみて「気の毒な」と思うくらいにならないといけないと思う。
「うちのおやじ、もう一生懸命にやっとる。
気の毒や」という感じが起これば、全部が一致団結して働くだろう。
けれどもそうでない限りは、経営者の活動の程度に応じてみな働くだろうと思う。

人間というのはそんなものである。
決してぼろいことはない。
自分はタバコをくわえて遊んでいながら「働け」と言っても、それは働かない。
私はそういうふうに考えてやってきた。

時を尊ぶ心

以前、ある床屋さんに行ったとき、サービスだということで、
いつもなら1時間で終わるサンパツを、その日は1時間10分かけてやってくれた。
つまり、床屋さんはサービスだということで10分間も多く手間をかけてくれたというわけである。
そこで私は、サンパツが仕上がってから冗談まじりにこう言った。

「君がサービスしようという気持は非常に結構だと思う。
しかし、念入りにやるから10分間余分にかかるということであっては、
忙しい人にとって困るようなことになりはしないか。
もし君が、念入りに、しかも時間も50分でやるというのであれば、
これはほんとうに立派なサービスだと思うのだが……」

運命に従う

人には人に与えられた道があります。
それを運命と呼ぶかどうかは別にして、自分に与えられた特質なり境遇の多くが、
自分の意志や力を越えたものであることは認めざるを得ないでしょう。
そういう運命的なものをどのように受けとめ、生かしていくかということです。

自分はこのような運命に生まれてきたのだ、だから、これに素直に従ってやっていこう、
というように、自分の運命をいわば積極的に考え、それを前向きに生かしてこそ、一つの道が開けてくるのではないでしょうか。
そこに喜びと安心が得られ、次にはほんとうの意味の生きがいというものも湧いてくるのではないかと思うのです。

小事を大切に

ふつう大きな失敗は厳しく叱り、小さな失敗は軽く注意する。
しかし、考えてみると、大きな失敗というものはたいがい本人も十分に考え、
一生懸命やった上でするものである。
だからそういう場合には、むしろ「君、そんなことで心配したらあかん」と、一面励ましつつ、
失敗の原因をともども研究し、今後に生かしていくことが大事ではないかと思う。

一方、小さな失敗や過ちは、おおむね本人の不注意や気のゆるみから起こり、
本人もそれに気がつかない場合が多い。
小事にとらわれるあまり大事を忘れてはならないが、
小事を大切にし、小さな失敗に対して厳しく叱るということも一面必要ではないか。

信用は得難く失いやすい

われわれが何か事を成していく場合、信用というものはきわめて大事である。
いわば無形の力、無形の富と言うことができよう。

けれどもそれは一朝一夕で得られるものではない。
長年にわたるあやまりのない、誠実な行ないの積み重ねがあってはじめて、
しだいしだいに養われていくものであろう。

しかしそうして得られた信用も失われるときは早いものである。
昔であれば、少々のあやまちがあっても、過去に培われた信用によって、
ただちに信用の失墜とはならなかったかも知れない。
しかしちょっとした失敗でも致命的になりかねないのが、
情報が一瞬にして世界のすみずみまで届く今日という時代である。

日に十転す

古人は“君子は日に三転す”と言ったという。
君子は時勢の進展というものを刻々と見て、それによく処しているから、
一日に三回も意見が変わっても不思議ではないというのであろう。

今日はおそろしくテンポの早い時代である。
そうした時代に、十年一日のごとき通念で、ものを見たり考えておれば判断をあやまることも多いだろう。
昔ですら君子たるものは一日に三転しなければならなかった。
テンポの早い今日では、日に十転も二十転もするほどの識見と判断の素早さを持たねばなるまい。

人間の本性は変わらぬものだが、その上に立って、
変わりゆく時勢の進展に刻々と処していくことが大事だと思う。

利害を一にしよう

おとなと青年、あるいは子供との間に断絶があるとすれば、
それはわれわれの言う商売的な利害を共にしていない、
さらにもっと高い意味の利害を一にしていないからだと思います。

親は子のために、子は親のために、ほんとうに何を考え、何をなすべきかということに徹しているかどうか、
また先生は生徒のためをほんとうに考えているかどうか、生徒は先生に対してどういう考え方を持っているのか。
そういう意識がきわめて薄いために、そこに溝ができ、それが断絶となり、大いなる紛争になってくるのではないでしょうか。
時代が時代だから断絶があるのが当然だと考えるところに根本の錯覚、過ちがあると思うのです。

昭和維新の志士として

いまから百年ほど前に明治維新というものがあり、
そしてその後、日本の姿が世界各国から認識され、
評価されるようにまでなりました。
しかし今日に至って、日本はまた大きな転換期を迎えていると思います。
また日本ばかりでなく、目を転じて世界をみてみると、世界の情勢も必ずしも安定しているとは言えません。

そういう情勢を考えるとき、私はいまは“昭和維新”のときであると考えねばならないのではないかと思います。
明治維新は日本の開化であった、昭和維新は世界の開化に努力する時期であると思うのです。
そしてわれわれ日本人が、昭和維新の志士を買ってでなくてはならないのではないかと思うのです。

大義名分

古来名将と言われるような人は、合戦に当たっては必ず「この戦いは決して私的な意欲のためにやるのではない。
世のため人のため、こういう大きな目的でやるのだ」というような大義名分を明らかにしたと言われる。
いかに大軍を擁しても、正義なき戦いは人びとの支持を得られず、長きにわたる成果は得られないからであろう。

これは決して戦の場合だけでない。
事業の経営にしても、政治におけるもろもろの施策にしても、
何をめざし、何のためにやるのかということをみずからはっきり持って、
それを人びとに明らかにしていかなくてはならない。
それが指導者としての大切な勤めだと思う。

正しい競争を

私どもが会社を経営していくときに、同業会社と非常な競争になります。
競争はしなければならない。
しかしそれは正しい形においてなさなければなりません。
卑怯な競争はしてはならない、まして相手を倒すとか、
相手に損害を加えるというような競争の仕方であってはならない、
というのが、事業をはじめて以来一貫した私の指導精神です。
競争会社があってこそわれわれのはげみになるのだ、
そういうように競争会社を発展的に見なければならないと考え、
また社員の人にも言ってきました。

われわれは実業人であると同時に、やはり紳士でなければならない、
正しい商売を遂行していかなければならないと思うのです。

雨が降ったり

雷が鳴ったりという自然現象はある程度の予測はできるものの、正確にはつかみえない。

われわれの人生の姿も、この自然現象とよく似たものではないだろうか。
そこには、天災地変に匹敵する、予期できない多くの障害がある。
われわれはそれらの障害の中にありながら、常に、自分の道をもとめ、仕事を進めてゆかねばならない。
そこに“一寸先は闇”とよく言われる人生のむずかしさがあるのであるが、
そういう障害を乗りこえ、道を切り拓いてゆくところに、また人生の妙味があるのだとも思う。
予期できるものであれば、味わいも半減してしまうであろう。

命をかける

「人多くして人なし」という言葉を、昔ある先輩から聞いたことがある。
考えてみると、会社経営においても普通の状態では、間に合う人は大勢いる。
ところがさて、大事に臨んで間に合う人はというと、きわめて少ないものである。

では、どういう人が大事のとき役に立つか。
その道の知識とか経験が大きな比重を持つことは当然だが、ただそれだけではダメのように思う。
その上に何が必要かというと、「生命を賭す」気構えである。
と言っても今日ではほんとうに命を捨てるということはきわめて少ないが、
いざというときには「命をかけて」という気構えを、いつの場合でも持っている人が、
ほんとうに大事に役立つ人だと思うのである。

呼びかける

自分が商売をしていて“これは良い品物だ。
使えばほんとうに便利だ”というものをみつけたら確固とした信念を持って、
お客さんに力強く呼びかけ、訴えるということが大事です。
そういう呼びかけをするならば、お客さんもおのずとその熱意にほだされ、
一度使ってみようかということになる。
その結果、非常に喜ばれ、“なかなか熱心だ”ということで信頼が集まり、
自然商売も繁昌していくことになります。

要はそういう呼びかけを喜びの気持を持って行なうこと、そこにこそお客さんにも喜ばれ、
世のため人のためになる真の商売を成功させる一つの大きなカギがあるのではないでしょうか。

持ち味を生かす

家康は日本の歴史上最もすぐれた指導者の一人であり、
その考え方なり、業績に学ぶべきものは多々ある。
しかしだからと言って他の人が家康の通りにやったらうまくいくかというとそうではない。
むしろ失敗する場合が多いと思う。
と言うのは、家康のやり方は家康という人にしてはじめて成功するのであって、
家康とはいろいろな意味で持ち味の違う別の人がやっても、それはうまくいかないものである。

人にはみなそれぞれに違った持ち味がある。
一人として全く同じということはない。
だから偉人のやり方をそのまま真似るというのでなく、
それにヒントを得て自分の持ち味に合わせたあり方を生み出さねばならないと思う。

限度を越えない

社会には、いわゆる常識というものがあります。
そしてその常識に従って、ある一定の限度というものがあるはずで、
たとえば、お金を貯めることも結構なら使うのも結構ですが、
その限度を超えて吝嗇であったり、また金使いが荒く、
借金だらけであるということでは、世間が承知しません。
やはり、収入の範囲において、ある程度使うということが許されるわけで、
これを越すと信用問題が起こってくることになります。

何をするにも、その限度を越えないように、お互いに十分注意し合い、行き過ぎたことは遠慮なく忠言し合って、
おのおの責任感を持ってやっていくことが望ましいと思うのです。

世界に誇れる国民性

同じ日本人でも細かくみれば、
考え方や性格など実にいろいろな人がいるわけですが、しかしまた一面には、
日本人には日本人としての共通の特性というか、日本人独特の民族性、
国民性というものがやはりあるように思います。
日本独特の気候や風土の中で長い間過ごしているうちに、
たとえば日本人特有の繊細な情感というようなものが、
しだいに養われてきたと言えるでしょう。

日本人の国民性のなかにも、反省すべき点は少なくありませんが、
とくに勤勉さとか、器用さとか、恵まれた気候風土と長い歴史伝統によって養われてきたこういう特性には、
世界にも大いに誇り得るものがあるように思うのです。

上位者に訴える

自分が最善を尽してもなお、これがいい方策だという確信が生まれない場合は、
ただちに上位者に訴える必要があります。

もちろん、それぞれの人が会社の基本方針にのっとりつつ、
責任をもって自主的に仕事を進めていくという姿はきわめて好ましいと思います。
けれどもうまくいかない非常に困難な場合、自分だけで悩み、上位者に訴えない。
上位者はうまくいっていると思って安心している。
どうしてもいけなくなって、訴えたときにはすでに手遅れだということが往々にしてあります。

具合の悪いときは瞬時も早く上位者に報告して指示を仰ぐ、それがほんとうの責任経営だと思うのです。

抜擢人事には介添えを

先輩が多くいるにもかかわらず、その後輩の若い人を抜擢して上のポストにつけるという場合があります。
そういう場合には、単に辞令を渡して“今度A君が課長になった”と発表するだけでは具合が悪いと思います。
そんな場合には社長が、その課の一番古い先輩に、
課員を代表して「われわれは課長の命に従い頑張ります」というような宣誓をさせるなりなんなりして、
はっきりけじめをつけさせることが必要です。
それをしないでいると、変なわだかまりがくすぶり、課全体が困ることにもなります。

抜擢人事には、そのように、社長が適切な介添えをすることが、非常に大事だと私は思います。

適正な給与

だれしも給与は多い方がよいと考えます。
その考え方自体は決して悪いとは思いません。
しかし、会社がかりに多くの給与を出したいと念願しても、
会社の一存によって実現できるかというと必ずしもそうはいかないと思います。
やはり、それだけの社会の公平な承認が得られて、はじめてそれが許され、恒久性を持つわけです。

給与が適切であるか否かは、会社にも従業員にも、
その安定と繁栄にかかわる重大な問題であり、
同時に社会の繁栄の基礎ともなるものです。
お互いに十分な配慮のもとに、絶えざる創意と工夫を加えて、
その適正化をはかっていかなければならないと考えます。

恩を知る

恩を知るということは、人の心を豊かにする無形の富だと思います。

猫に小判ということがありますが、せっかくの小判も猫にとっては全く価値なきものにすぎません。
恩を知ることはいわばその逆で鉄をもらってもそれを金ほどに感じる。
つまり鉄を金にかえるほどのものだと思うのです。
ですから今度は金にふさわしいものを返そうと考える。
みんながそう考えれば、世の中は物心ともに非常に豊かなものになっていくでしょう。

もっとも、この恩とか恩返しということは
決して要求されたり、
強制されるものでなく、
自由な姿でお互いの間に
理解され浸透することが
望ましいと思います。

事あるたびに

私は、世の中というものは刻々と変化していき、進歩発展していくものだという見方を根本的に持っています。
何か事あるたびに、この世の中はだんだんよくなっていくと思っているのです。

あの誤った戦争をして、あれほどの痛手を被ったにもかかわらず、
今日のように繁栄の姿になっているのは、どういう問題が起ころうとも、
世の中は一刻一刻進歩発展していくものだということを表わしている一例ではないでしょうか。
あの戦争があってよかったとは決して思いませんが、
しかしどういう事があった場合でも、お互いのあり方次第で、
それが進展に結びつく一つの素因になるのではないかと思います。

広い視野

今日では、世界の一隅に起こったことも、それが瞬時に全世界に伝わり、さまざまな影響を及ぼす。
そのような中で、自国の範囲だけ、自分の会社、団体の範囲だけの狭い視野で事を考え、
行動していたのでは、往々にしてあやまちを犯すことになってしまうと思う。
いま、視野の広さというのは、指導者にとって、欠くことのできないものであろう。

指導者はみずから世界全体、日本全体といったように広い範囲でものを見るよう常に心がけつつ、
一国の運営、会社や団体の経営を考えなくてはならないし、
また人びとにそうした広い視野を持つことの大切さを訴えていかなくてはならないと思う。

忍ぶべきを忍ぶ

誠心誠意いいものをすすめたけれども用いてくれないというので憤慨し、
これは相手が暗愚だからしようがないとやけになって、
結局うちこわしになってしまうということが、ままあるようです。

しかし、そういうことでは、私は大したことはできないだろうと思います。
用いてくれなければ時をまとう。
これだけ説明してもだめだというのは、
これは時節がきていないのだ--そう考えてじっと忍耐していくところから、
無言のうちに知らしめる、というような強い大きな誠意が生まれてきます。
そしてそのうちに、相手がみずから悟ることにもなって、
それが非常な成功に結びつくことにもなりましょう。

自分の最善を尽くす

太閤秀吉という人は、ぞうり取りになれば日本一のぞうり取りになったし、
炭番になれば最高の能率を上げる炭番になった。
そして馬回り役になったら、自分の月給をさいてニンジンを買い、馬にやったという。
このため嫁さんが逃げてしまったということだが、そこに秀吉の偉大さがある。
馬番になったが「オレはこんな仕事はいやだ」などと言わずに、日本一の馬番になろうと努力した。

つまり、いかなる環境にあっても、自分の最善を尽し、一日一日を充実させ、それを積み重ねていく。
それが役に立つ人間であり、そのようなことが人を成功に導いていく道だと思うのである。

精神大国をめざして

今日、わが国は経済大国と言われるまでになりましたが、
人びとの心の面、精神面を高めるということについては、
とかくなおざりにされがちだったように思います。
これからは経済面の充実とあわせて、お互い国民の道義道徳心、
良識を高め、明るく生き生きと日々の仕事に励みつつ、
自他ともに生かしあう共同生活をつくりあげていく。
あわせて日本だけでなく海外の人びと、ひいては人類相互のための奉仕、
貢献ができる豊かな精神に根ざした国家国民の姿を築きあげていく。
そのような精神大国、道徳大国とでも呼べる方向をめざして進むことが、
今日、国内的にも対外的にも、きわめて肝要ではないかと思うのです。

値引く以上のサービス

商人は、自分の信念なり事業観に基づいて適正利潤というものを確保し、
顧客を大事にしつつ商人としての社会的責任を果たしていくことが肝要で、
それが社会共通の繁栄に結びつく望ましい姿だと思います。

そして、そうした望ましい商売をしていくためには適当にかけ引きをして値段をまけるというのではなく、
最初から十分勉強した適正な値段をつけて、それは値切られてもまけない、
逆にお客さんを説得し納得していただくということでなければいけません。
その上で“あの店は値引く以上に価値あるサービスをしてくれる”という評判をお客さんからいただくような商売をすることが大事だと思います。

とどめを刺す

日々のお互いの仕事の中で、もうちょっと念を入れておいたら、
とあとから後悔することが少なくないような気がする。

一生懸命に努力して、せっかく九九%までの成果を上げても残りのわずか一%の「止め」がしっかりと
刺されていなかったら、
それは結局はじめからやらなかったと同じことになる。
いや中途半端にやっただけ、むしろマイナスになる場合が多いのではあるまいか。
念には念を入れよ、である。
仕事を完全にやり通すのに念の入れ過ぎということはないのである。
とどめを刺さない仕事ぶりがあったら、お互いにその不徹底を大いに恥とするほどの厳しい心がけを持ちたいものである。

死も生成発展

私は、人生とは“生成発展”、つまり“日々新た”の姿であると考えています。
人間が生まれ死んでいくという一つの事象は、人間の生成発展の姿なのです。
生も発展なら死も発展です。

人間は、今まで、ただ本能的に死をおそれ、忌みきらい、これに耐えがたい恐怖心を抱いてきました。
人情としては無理もないことと思います。

しかし、われわれは生成発展の原理にめざめ、死はおそるべきことでも、
悲しむべきことでも、つらいことでもなく、むしろ生成発展の一過程にすぎないこと、
万事が生長する一つの姿であることを知って、死にも厳粛な喜びを見出したいと思います。

要求者たれ

経営者にとって、とくに大事な点は何かというと、それは“要求者になる”ということだと思います。
社員の人たちに、会社の方針はこうだから、こういうようにやろうではないか、
諸君も努力して欲しい、という強い呼びかけを持つということです。
それが社長の仕事だと思います。
社長がそういうことを言わなければ、
社員は何をどういうふうにやっていいのか分からないということになって、
力強いものは生まれてきません。

ですから、経営者は強い理想というか希望というものを打ち立てて、
これを社員のすべてに要望、要求することが肝要なのです。
要望を持たない社長は存在の意義がないと思うのです。

人間としての努め

命をかける--それは偉大なことです。
命をかける思いがあるならば、ものに取り組む態度というものがおのずと真剣になる。
したがって、ものの考え方が一新し、創意工夫ということも、次つぎに生まれてきます。
お互いの命が、生きて働くからです。

そうすると、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、
無限にわき出てくると言えるのではないでしょうか。
この無限にひそんでいるものを一つ一つ捜し求めていくのが、
人間の姿であり、私たちお互いの、人間としての勤めであると思います。
もうこれでいい、けっしてそう考えてはならない。
それは人間の勤めを怠る人だと私は思います。

不可能を可能にする

ある製品の価格を1年ほどの間に3割も引き下げて注文をとっている会社のことが新聞の記事に載っていました。
以前は非常に儲けすぎていたのだと言えばそれまでです。
しかし、以前と言えどもある程度の利益以外は取っていなかっただろうと思いますし、
今度と言えども赤字ではやっていないだろうと思います。

そうすると、そこにはなんらかの工夫があったと考えられます。
経営の考え方とか、仕方に工夫をこらして、価格を引き下げても引き合うという方法を見出しているのです。
そうした成果は、“不可能を可能にする道は必ずある”とみずから考え努力していくところから生まれてくるものではないでしょうか。

労働は神聖なり

労働は神聖である。
その意識をお互いにつよく持ちたいものだと思う。

私は、労働は神聖であり、その聖職に当たっているのだという誇りから、
労働それ自体も、より価値あるものになるというか、
その能率、生産性も知らず識らずのうちに上がってくると思う。

そのように生産性が上がって、仕事の成果も高まれば、それは労働者に、
より大きな報酬資金をもたらすことになろう。
つまり、労働の喜びという精神的な面だけでなく、物質的な面での向上進歩もあるわけで、
言ってみればそうした意識、誇りから物心一如の繁栄なり幸福なりが生まれてくると思うのである。

弁解よりも反省

仕事でもなんでも、物事がうまくいかない場合、必ずそこに原因があるはずである。
だからうまくいかなかったときに、その原因を考えることは、
同じ失敗を重ねないためにも、きわめて大切である。

そのことは誰もが承知しているのであるが、
人間というものは往々にしてうまくいかない原因を究明し反省するよりも、
「こういう情況だったからうまくいかなかったのだ。
あんな思いがけないことが起こって、それで失敗したのだ」というように弁解し、自分を納得させてしまう。
原因は自分が招いたことである、という思いに徹してこそ、失敗の経験も生かされるのではないだろうか。

心をときはなつ

自由な発想の転換ができるということは、指導者にとってきわめて
大事なことである。
しかし、発想の転換ということはさかんに言われるが、実際はなかなかむずかしい。
みずから自分の心をしばったり、せばめている場合が多いのである。

だから大事なことは、自分の心をときはなち、ひろげていくことである。
そしてたとえば、いままでオモテから見ていたものをウラから見、またウラを見ていたものをオモテも見てみる。
そういったことをあらゆる機会にくり返していくことであろう。
そうした心の訓練によって、随所に発想の転換ができるようにしたいものである。

寛容の心で包含

世の中にはいい人ばかりはいない。
相当いい人もいるが相当悪い人もいるわけです。
ですから、きれいな人、心の清らかな人、そういう人ばかりを世の中に望んでも実際にはなかなかその通りにはなりません。
十人いたらその中に必ず美ならざる者も正ならざる者も入ってくる。
そういう状態で活動を進めているのが、この広い世の中の姿ではないでしょうか。
そこに寛容ということが必要になってきます。

力弱き者、力強き者があるならば、両者が互いに包含し合って、そこに総合した共同の力を生み出してゆく。
そういうところにわれわれ人間のいき方があるのではないかと私は思うのです。

くり返し訴える

経営者が、その思うところの考え、意志を社員に十分伝え、浸透させようとするにはどうすればいいだろうか。

それは、何よりもまずくり返し話すことである。
大切なこと、相手に覚えてもらいたいことは、何度も何度もくり返して言う。
くり返し訴える。
二度でも三度でも、五へんでも十ぺんでも言う。
そうすれば、いやでも頭に入る。
覚えることになる。

またそれとあわせて、
文字をつづって文章にしておく、
ということも大切だと思う。
文章にしておけば、
それを読みなさい、
と言えば事が足りる。
読んでもらえば、
くり返し訴えるのと同じことになる。

民主主義と勝手主義

民主主義というものは、自分がよければ人はどうでもいい、というような勝手なものでは決してないと思うのです。
今日の日本の民主主義はわがまま勝手主義である。
勝手主義を民主主義の如く解釈している人が随分あるのではないか、というような感じがします。

民主主義というものは、自分の権利も主張することは認められるが、それと同時に他人の権利なり、
福祉なりというものも認めてゆかなければならない。
そういうことをしなかったならば、法律によってぴしっとやられるというような非常に戒律の厳しいものだと思います。
それがあってはじめて民主主義というものが保ち得るのだと思うのです。

権威を認める

一つの会社の経営でも、また個々の責任者が一つの部署を運営する場合でも、
そこにみなが認めるような権威というものを求めて、それに基づいて事を成していくことが能率的、
効果的な運営をしていく上できわめて大切だと思う。

会社の創業の精神、経営理念なり使命感、
あるいは経営者自身の人徳なり熱意、そういったものをみなが得心して
権威として認めるようになれば、物事が能率的に治まっていく。
今日では権力というものを否定する風潮が強く、
さらにそれが進んでいい意味の権威までも認めないような傾向もみられるが、
それはかえって非能率を生むものであるとも言えるのではないだろうか。

成功するまで続ける

何事によらず、志を立てて事を始めたら、少少うまくいかないとか、
失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。
一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、
ほんとうに物事を成し遂げていくことはできない。

世の中は常に変化し、流動しているものである。
一度は失敗し、志を得なくても、それにめげず、辛抱強く地道な努力を重ねていくうちに、
周囲の情勢が有利に転換して、新たな道が開けてくるということもあろう。
世に言う失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。
最後の最後まで諦めてはいけないのである。

自分の働きの価値は

皆さんは自分の働きの価値というものをどのように考えているでしょうか。
かりに月給が10万円の人であれば、10万円の仕事をしたのでは会社には何も残らないことになります。
私は自分が10万円もらっていれば、少なくとも30万円、できれば100万円ぐらいの仕事をしなくてはいけないと考えます。
そうすれば会社に金が残ります。
その金は会社だけでなく社会へ還元されるわけです。
会社から10万円もらって8万円の仕事をしていたなら、会社は2万円損ですから、そういう人ばかりだと、その会社は潰れてしまいます。
会社に働く者としては、そういうことを絶えず頭に置いておく必要があると思います。

自分を戒めるために

松下電器では、昭和八年に“遵奉すべき五大精神”を定め発表して以来、
毎日の朝会で唱和している(十二年に二精神を加え七精神)。
これはもちろん、社員としての心がまえを説いたものであるが、
それと同時に私自身を鞭撻するためのものである。
みんなで確認しあった使命であっても、何もなければついつい忘れていきがちになる。
だから毎日の仕事のスタート時にかみしめる。
言ってみれば自分への戒めである。

人間は頼りないものである。
いかに強い決意をしても、時間がたてばやがてそれが弱まってくる。
だからそれを防ぐためには、常に自分自身に言い聞かせる。
自分に対する説得、戒めを続けなければならない。

部下に使われる

一般に、形の上では指導者が人を使って仕事をしているようにみえるが、
見方によっては指導者の方が使われているのだとも言える。
だから、口では「ああせいこうせい」と命令しても心の奥底では、
「頼みます」「お願いします」さらには「祈ります」といった気持を持つことが大事だと思う。
そういうものを持たずして、ただ命令しさえすれば人は動くと思ったら大変なまちがいである。
指導者は一面部下に使われるという心持を持たねばならないのである。
こうした心境があって、はじめて部下に信頼される大将になり得るのである。

特に大きな組織、集団の指導者ほど、この心がまえに徹することが必要だと言えよう。

立場を交換する

たとえば経営者と労働組合、与党と野党の関係など、社会では対立して相争うという姿が各所に見られる。
その結果、精神的にいがみ合いがあるばかりでなく、
物事の円滑な進行が妨げられ、そこから大きなロスが生まれている。

そういう傾向になりがちなのは、やはりそれぞれが自分の立場中心にものを見るからではないだろうか。
自分の立場中心に考えれば、どうしても自分というものにとらわれてものの見方がせまくなり、全体が見えにくくなってしまう。
だからときに相手の立場にわが身を置く気持で、お互いの立場を交換して考えてみてはどうか。
そうすることによって相互の理解も深まり、合意点も見出せるのではないだろうか。

企業は儲けるべし

企業というものは、終始一貫、どうすれば合理化できるか、どうすればムダな経費が省けるかと、
一生懸命汗を流し、工夫し、そして苦心惨憺してやっと一定の利益を上げているのです。
そして利益の大半を税金として納めています。
企業も国民も、みんなが働いてプラスを生んで、税金を納めているから国の財源ができるわけです。
どこも儲けなければ、税金もおさめられない。
とすれば国の財源はどこから集め得るのでしょうか。

企業は儲けてはいけないということであるなら、経営は簡単です。
努力もいらなければ創意工夫もしなくていいのですから。
それで国が成り立っていくのであれば何も苦労はいりません。

商品の段位を高める

いま、新しい開発商品が十品できたとします。
十品とも碁や将棋にたとえると、初段の資格がある、
いわゆる一人前の商品として一応は売れていくわけです。
しかし、そのうちのどれか、これというものを取り上げて、
一品くらいは永遠に名人として残っていく、
という姿を生み出すことができないものかと思います。

今までの姿には、新製品ができて少し日がたつと、
もう旧製品として消えていくのが当たり前、という考え方がありました。
しかし初段のものを今度は二段にする、三段にする、四段にすることによって名人までもっていく。
そういうことをたえず考えていく必要があると思うのです。

利害損失にとらわれない

利害損失を考えることは、ある程度やむを得ないけれども、
あまりそれにとらわれすぎると、自分の歩む道を誤ることにもなりかねない。

学校を選ぶにしても、卒業して仕事を選ぶ場合でも、そうである。
誰もが給与とか待遇のことを先に考える傾向があるが、
やはり、自分には何が一番適しているだろうかということを、よく考えるべきだと思う。

必ずしも大会社へ行ったから幸せかというとそうとばかりは言えない。
人によっては、中小企業へ勤めてかえって用いられ、
人生の味というか、アヤを知る尊い体験ができて、
人間としても成長するということが往々にしてあるからである。

ふりこの如く

時計のふりこは、右にふれ左にふれる。
そして休みなく時がきざまれる。
それが原則であり、時計が生きている証拠であると言ってよい。

世の中も、また人生もかくの如し。
右にゆれ左にゆれる。
ゆれてこそ、世の中は生きているのである。
躍動しているのである。

しかし、ここで大事なことは、右にゆれ左にゆれるといっても、そのゆれ方が中庸を得なければならぬということである。
右にゆれ左にゆれるその振幅が適切適性であってこそ、そこから繁栄が生み出されてくる。
小さくふれてもいけないし、大きくふれてもいけない。
中庸を得た適切なふれ方、ゆれ方が大事なのである。

見る前に察する

不当な競争は断じていけませんが、
正常な競争には進んで乗りださなければ、進歩がありません。
またその競争には勝たねばなりません。

その場合、問題は相手の差し手を、それが形に表われないうちに感じることができるかどうかにあります。
相手の企画が商品として市場に出てきてから、
あれはいいな、うちでもやろうか、では遅いのです。
まだ目に見えないものを、なんとなく感じる。
むずかしいがそれをやるのが競争に勝つ経営というものです。
ましてや相手の商品を見てすぐに手を打つならまだしも、
それが売れ出してやっとみこしを上げるようでは“後手”にまわるもはなはだしいと言うべきです。

大器晩成ということ

よく世間では、あの人は大器晩成型などと言いますが、その場合はどちらかといえば、
あまりほめたようには使わないことが多いようです。
つまり、いまはまあまあだけれども、そのうちになんとか一人前になるだろう、といった調子です。
しかし私は、この大器晩成というのは、もっと大事な意味を持っているのではないかと思うのです。

真の大器晩成型というものは、人生は終生勉強であるという考えを持って、
ウサギとカメの昔話のカメのように、一歩一歩急がずあわてず日々精進し、
進歩向上していく姿ではないかと思います。
そういう姿をめざすことがお互いに大切だと思うのです。

職種と適正

文化が進むと職種が増え、自分の好む職種というものが、だんだんと選びやすくなってきます。
そしてそこに生きがい、働きがいが求めやすくなってくるだろうと思います。
しかし、今日のところは、まだ十分でなく、この仕事はあまり自分には適していないが、
まあこれで甘んじていようかという場合もあると思います。
けれども昔からみると、非常に恵まれています。

そう考えてみると、今日に生きるわれわれは、非常に幸せだと思います。
自分の好む仕事を求めやすい時代です。
こういう時代に生まれながら、もしも仕事に生きがい、
喜びを感じないというのであれば、それは原則として許されないことになると思うのです

日本人としての自覚と誇り

“国破れて山河あり”という言葉があります。
たとえ国が滅んでも自然の山河は変わらないという意味ですが、
山河はまた、われわれの心のふるさととも言えましょう。
歴史に幾変転はあっても、人のふるさとを想う心には変わりはありません。
この国に祖先が培ってきた伝統の精神、国民精神もまた変わることなく、
お互い人間の基本的な心構えであると思います。

われわれは日本という尊いふるさとを持っています。
これを自覚し誇りとし活動する、そこにはじめて、
お互いに納得のいく動きが起こるのではないでしょうか。
日本人としての自覚や誇りのないところには、日本の政治も経済もないと思うのです。

生産者の感激

私が昔、直接生産に従事していたとき、新しい品物を代理店へ持参して見せると、
「松下さん、これは苦心された品ですね」と言われたことがあります。
こう言われたとき、私は無料で進呈したいと思ったほど嬉しかったのです。
これは高く売れて儲かるという欲望的な意識でなくて、
よくぞ数カ月の造る労苦を認めてくださったという純粋な感激だったのです。

こうした感激は、常に自分の魂と至誠を製品にこめる者のみが味わい得るものだと思います。
そしてそのような喜びに全社員がひたりつつ生産してこそ、
確固たる社会信用を獲得することのできる製品を生み出すことが可能になるのではないでしょうか

人の世は雲の流れの如し

青い空に、ゆったりと白い雲が流れていく。
常日ごろ、あわただしさのままに、意識もしなかった雲の流れである。
速くおそく、大きく小さく、白く淡く、高く低く、ひとときも同じ姿を保ってはいない。
崩れるが如く崩れざるが如く、一瞬一瞬その形を変えて、青い空の中ほどを、さまざまに流れてゆく。

これはまさに、人の心、人のさだめに似ている。
人の心は日に日に変わっていく。
そして、人の境遇もまた、きのうときょうは同じではないのである。
喜びもよし、悲しみもまたよし、人の世は雲の流れの如し。
そう思い定めれば、そこにまた人生の妙味も味わえるのではないだろうか。

使命感半分、給料半分

人間には、“欲と二人連れ”という言葉もあるように、自分の利によって動くという面と、使命に殉ずるというか、
世のため人のために尽すところに喜びを感ずるといった面がある。
だから人を使うにしても、給料だけを高くすればいいというのでなく、
やはり使命感というものも持たせるようにしなくてはほんとうに人は動かない。
もちろん使命感だけで、給料は低いというのでも、これはよほど立派な人でない限り不満を持つだろう。
普通の人間であれば、使命感半分、給料半分というところだと思う。

そのようなあるがままの人間性に則した処遇をしていくところに、適切な人の使い方があると言えよう。

社長を使う

私はいつも社長をもっと使ってくれというのです。
「こういう問題が起こっているのです。これは一ぺん社長が顔を出してください。社長に顔出してもらったら向うも満足します。」
「それなら喜んで行こう」というわけです。
こういうように社長を使うような社員にならなければならないと思うのです。
その会社に社長を使う人間が何人いるか、一人もいなかったらその会社はだめです。
しかしほんとうに社長を使う人間が、その会社に十人できたら、その会社は無限に発展すると思います。

また、社長を使わなくても課長や主任を使う。
上司が部下を使うことは、普通の姿です。
部下が上司を使うことが大事なのです

こわさを知る

人はそれぞれにこわいものを持っています。
子どもが親をこわいと感じたり、社員は社長をこわいと思ったり、世間がこわいと思ったりします。
しかしそれとともに、自分自身がこわいという場合があります。
ともすれば怠け心が起こるのがこわい、傲慢になりがちなのがこわいというようなものです。

私はこのこわさを持つことが大切だと思います。
こわさを常に心にいだき、おそれを感じつつ、日々の努力を重ねていく。
そこに慎み深さが生まれ、自分の行動に反省をする余裕が生まれてくると思うのです。
そしてそこから、自分の正しい道を選ぶ的確な判断も、よりできるようになると思います。

容量\(^o^)/オーバー

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